高二・夏

あの青い空のように

 学校が休みの週末、優牙は自室のベッドに寝転びながら何度も何度も頭の中で彼女といた情景を思い浮かべた。

 深夜の公園で待っていた赤いフードの彼女。思い詰めたような儚い瞳。一緒に歩いた道。高架下のトンネルで描かれる絵。震える彼女の体。手を引いて走り出した時の冷たい彼女の手。公園のベンチで吐露した彼女の言葉。両目から流れる涙。涙を拭い、自分に見せてくれた微笑み。

 彼女と共有した時間が、自分の中で育っていく。優牙はこの気持ちをどうしたらいいかわからなかった。ただロボットのようにあの夜の情景の再生をひたすら繰り返し、ひたすら味わった。

 月曜日になり、優牙はシルバーを駆って学校に向かう。

 駐輪場にシルバーを停め、昇降口へ行った。

 優牙が下駄箱で上履きに履き替えていると、昇降口の入り口から六花が入ってきた。

 見つめ合う二人。一瞬時が止まり、その世界には二人しかいなかった。

 再び時が動き出し、六花が近づいてくる。手を伸ばせば届く位置まできたところで、彼女が小声で囁いた。

「おはよう、くん」

 六花はくすぐったそうに笑っていた。

「おはよう、

 そのお互いの呼び名は、他の人間に聞かれたくなかった。少なくとも今はまだ。きっと彼女もそうだったから、わざわざ優牙の傍で挨拶したのだろう。

 六花も上履きに履き替える。六花が靴を下駄箱に入れようとした時、彼女の手首に赤色のミサンガが見えた。優牙はなんとなくその光景を記憶にしまい込んだ。

 二年の教室に向かう。六花が黙って後ろからついてきていた。本当は隣で歩きたい。

 教室に入って自分の席に座る。それからはいつもの日常が始まった。

 六花は学校で普通に過ごしていた。真面目に勉強して、休み時間は友達と話して。あの深夜の体験が嘘だったかのように。

 日々が過ぎていく。

 六花とはメッセージでやりとりしていたし、時々一緒に『喫茶スローアップ』へ行くこともあった。けれどあの日以来、彼女からグラフィティを描きにいく誘いはこなかった。

 じめじめとした梅雨が明け、夏休みが近づいてくる。

 夏の日差しが煌々とアスファルトを照りつけるその日。放課後に優牙は六花と一緒に『喫茶スローアップ』への道を歩いていた。もはや見慣れた風景だ。

 ゾクゾク!

 突然優牙の体に嫌な悪寒が奔った。その場で立ち止まる。

「どうしたの?」

 六花が不思議そうに訊いてきた。

「いや、なんか背中のほうから変な感じがして」

「変な感じ? 風邪のひき初めじゃない? 大丈夫?」

「大丈夫だ。天才は風邪ひかない」

「それ、聞いたことないよ」

 優牙はなんとなく後ろを振り返った。自分たちが歩いてきた道が見える。

「う、嘘だろ」

 優牙はそこに目を疑うようなものを発見した。

 紙袋だ。逆さにした茶色い紙袋がある。その紙袋には三角形を描くように三つの穴が開いていた。そしてその下には、優牙たちの高校の制服を着た女子生徒の体があった。その女子生徒は紙袋を被り偽装をして遠目からこちらを眺めているのだ。あまりにも突飛な光景に優牙は開いた口が塞がらない。さらによく見ると、女子生徒の後方にもう一人紙袋を被った小柄な男子生徒が控えていた。紙袋の二人は、優牙に気づかれたとは思っていないようだった。もしかするとあれで隠れているつもりなのかもしれない。むしろ通常以上に目立ってしまっているのに。

「誰なのか、すぐわかっちゃうね」

 六花が楽しそうに笑った。

「どうすんの、あれ。俺たち尾行されてるぞ」

「私は構わないよ」

「何が?」

「放課後にこっそり優牙くんと一緒にいるってばれたって」

「あいつらそのうち熱中症で倒れるんじゃないかな」

「それはまずいね」

「いや、自業自得だ」

 優牙たちが動かないでいると、そのうち紙袋を被った女子生徒が力尽きたようにその場で両手と両膝をついた。そしてアスファルトの地面がとてつもない熱さまで熱せられていることに気づき、ギョッと飛び退いた。一体何をしているのだろう。大道芸でも見ている気分だ。

 さらに優牙たちがその場でじっとしていると、何かを吹っ切った紙袋女子がつかつかと大股歩きで近づいてきた。優牙の前に立ったところで紙袋を剥ぎ取り、茹で上がっているアスファルトに叩きつけた。

「コラー! あたしを殺す気かー!?」

 紙袋女子の正体は当然のように茉莉だった。なぜか逆ギレしている。汗だくの赤い顔だ。

「もう僕も取って大丈夫ですよね?」

 茉莉の後ろにいた紙袋男子がそう言って紙袋を外した。そこから蓮の顔が現れる。きっと茉莉に強制されてついてきたのだろう。

「お前ら何やってんの? その遊び楽しい?」

「楽しいわけあるかー!」

 茉莉が雄叫びのように発する。どうやら頭を冷やさせたほうがよさそうだ。

「あのな、本来なら尾行されてた俺たちが怒るシチュエーションだぞ」

「知るか、んなこと。放課後に二人でコソコソコソコソしやがって」

「コソコソしてたのはお前たちのほうだからな」

「茉莉ちゃん、大丈夫?」

「六花! なんであんたこんな奴と一緒にいるわけ?」

「えっと、優牙くんどうしてかな?」

「俺に話を振るな」

「優牙くん? あんた下の名前で優牙のこと呼んでんの? 二人はできてるわけ?」

「ああもう暑い。とりあえず先店行くぞ」

 炎天下でだべり続けていては干物になってしまう。

 一行は『喫茶スローアップ』に到着し、ぞろぞろと中へ入っていく。

 カランコロン。

「あー涼しい」

 生き返った心地で茉莉が言った。

 ボックス席が空いているのでそこに座ることにする。店の奥のほうを見ると、小玉が隠れながらこちらを窺っていた。知らない人間を連れてきてしまったので、緊張しているかもしれない。

「今日は四人か」

 図体のでかい柔和な顔つきの康広が姿を見せた。

「ちっす。この二人、俺の両親っす」

「どうも母親です。ってんなわけあるか!?」

「すすす杉崎さんと僕が、ふふふ夫婦?」

「ちょっ、星村、気にするとこ違うからね」

「茉莉、顔赤くなってるぞ」

「暑いだけだわ」

「ヒューヒュー」

「六花、あんたそんなこと言うキャラだった?」

「ハハハ、賑やかでいいね」

 水分補給が必要な四人はそれぞれドリンクを注文した。

「それで、どういうことなのか、ちゃんと話してもらうからね」

 茉莉が刑事のような圧で言う。

「どうして優牙と六花が二人でこんな店に来てるわけ? あたしに隠れて付き合ってんの?」

「ちっげーよ」

「ちっげーよ」

「六花、あんたなんか汚染されてない?」

「どちらにしろ茉莉にわざわざ言う必要なんてないだろ」

「あたしはどうしてこうなったのか知りたいの。何かきっかけでもあった?」

「俺が六花を屋上に呼び出した」

「えっ?」

「えっ?」

 茉莉と蓮の二人が驚き、六花は恥ずかしそうに顔を赤らめた。

「六花、マジ?」

「マジだよ」

「こいつに何て言われたの?」

「たまごサンドとコーヒー牛乳は最強だろう、って」

「は?」

「それより、お前らのほうはどうなの? どこまで行った?」

「どどどどどこまでって、ゆゆゆ優牙さん何言ってるんですか?」

「蓮、狼狽えすぎ」

「ああああたしたちは、べっべべべべっつに何もないんだからね」

「いや、絶対何かあるだろその狼狽えよう」

「いやあ、青春だねえ」

 ドリンクを運んできた康広が羨ましそうに言った。

 その後四人はなんでもないようなことを話したりしながら過ごした。小玉がひょこひょこやってきた時は、優牙と六花の隣に座らせてあげた。

 知らない間に時間が過ぎていく。それはきっと、今が楽しいからなんだろう。

 優牙は時折、六花のことを盗み見た。彼女は本心から楽しんでいるようだった。今のこの時を。

 そうやって自分たちはずっと笑っていた。

 夏はまだ始まったばかりだ。

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