二つ目の落書き
優牙は鍋でくし切りにした玉ねぎを炒めていた。次に牛肉を投入。にんじんとじゃがいもも入れ、玉ねぎがきつね色になるまで炒めた。
水を入れ、沸騰したら浮いてきたあくを取っていく。具材が柔らかくなるまで煮込んだ。
一度火を止めて、最後にルウをぶち込んでやる。再び火を点けて煮込み、とろみがついたところで味見をした。
普通だ。ありきたりのカレーだ。それも当然。ありきたりの具材でありきたりの作り方をしたのだから。
『喫茶スローアップ』のカレーはこれとは全然違う。今度康広にレシピを尋ねてみようか。炊飯器から音が鳴って米が炊けたことを告げた。
優牙がサラダ用の野菜を切っているところで、玄関のドアが開く音がした。リビングにスーツ姿の雫が入ってくる。
優牙が淡々と包丁を動かしていると、雫が犬みたいに鼻をクンクンさせながら近づいてきた。
「おやー。良い匂いがするねえ」
「悪いが一人分しかない」
「はあ!?」
「嘘だよ」
雫は一度部屋を出て部屋着に着替えてきた。
皿にカレーとご飯をよそい、器にサラダを盛った。リビングのテーブルに運んでいく。飲み物はそれぞれ持参する。優牙はコーヒー牛乳で、雫はウーロン茶のようだ。
「酒飲まねえの?」
「そうね。今日はそんなことしなくても酔えそうだ。彼氏にご飯を作ってもらった気分だよ。いやそれよりはるかに嬉しいか」
優牙は黙ってカレーを食べ始めた。
雫がスプーンを持ったので見ていると、カレーをすくって口へ運んだ。カレーを口に含んだ雫は一瞬停止した後、ニッと片側の口角を上げてボーイッシュに笑った。とくに感想の言葉はなかったが、優牙はそれで充分だった。
食事がある程度進んだところで、優牙は口を開いた。
「あのさ」
雫は食事の手を止めずに目だけを優牙に向けた。
「芸大ってどれぐらい金かかんの?」
雫の目が点になった。完全に意表を衝かれた表情だった。
「なんかバイト始めようと思ってんだけど」
雫は目を見開きながら穴が開くほどに優牙を凝視した。優牙は鼻の穴が三つになった気分だった。
雫は持っていたスプーンを皿に置き、何かをこらえるように頭を下げた。それからグワッと顔を上げて、
「あっはははははは!」
高らかな笑い声を上げた。
「どうした? ついに頭がイカれたのか?」
「ハハハハハハ」
「って聞いてねえ」
「はっははっははは」
雫は目尻に涙を浮かべて笑いながら、苦しそうにお腹を押さえていた。
「どうやらこれまでで一番ウケたようだな」
「ハハハハ」
「長いな」
「ごめん、ごめん。うひ、うひひひひ」
「全然悪びれてねえ」
優牙は雫の笑いの発作が治まるのを待つしかなかった。
雫は一頻り笑い切った後、ウーロン茶をグビッと
「お金のことなら心配しなくていいよ」
そして優牙を見た。
「そんなことよりも、今は今しかできない青春を謳歌しな」
優牙はこれまでも何度も思ってきたし、この時も強く思った。
この人の息子でよかった、と。
翌日。優牙はシルバーを走らせて学校に向かう。
毎日毎日同じようなサイクル。だけど日々は少しずつ姿を変えていく。
置いていかれないように。取り残されないように。
人は進んでいかないといけない。
モノクロのネズミ。
季節に取り残され、色を失った心。
自分はまだ過去に囚われたままだ。
どうやったらこの楔を取り除けるのだろう?
優牙は忘れられない。忘れたくない。その想いが強すぎて、前に進めない。
学校に着き、駐輪場にシルバーを停めた。
校舎に入って二階に上がると、三年F組の教室の前に人だかりができていた。多くの生徒たちがスマートフォンを片手にそれを眺めている。
ドクドクと心拍数が上昇した。
優牙は人混みに割って入っていく。
三年F組の廊下側の壁一面に、グラフィティが描かれていた。紺色の夜空をキャンバスに、色鮮やかな花火が咲いている。たんぽぽの綿毛のようにきめ細やかな再現。色とりどりの花火の片隅で、モノクロのネズミが佇んでいる。「レッドフード」の絵だ。
彼女が去年の夏に描いた絵だ。
生徒たちの話し声やスマートフォンのシャッター音に混じり、すすり泣く声が聞こえた。見ると、茉莉が廊下の端にしゃがみ込んで泣いていた。優牙はそちらに近づいていく。
「茉莉」
優牙は幼馴染の肩に軽く手を置いた。
茉莉はしゃくり上げている。
「優牙ー。六花が、六花が」
優牙はハンカチでも取り出して茉莉に貸し与えたかったが、
優牙は茉莉の気持ちを察する。
きっと茉莉は思い出しているのだろう。
どこまでも蒼かった、あの夏の思い出を。
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