哀愁の西日
世界史の授業が始まる時刻の一分前に、担当である担任の神田が3年F組の教室に入ってきた。今日も世界の不純さを一身に背負ったようなむすっとした表情。
神田はあと三歩で教卓に辿り着くというところで立ち止まり、黒板に目を向けた。そこには白いチョークで間抜けな顔のエスパー少女の絵が大きく描かれている。神田はその絵を三秒ほど見つめた後、残りの三歩を進んで教卓に教材を置き、黙って正面を向いた。
授業開始のチャイムがスピーカーから響く。
チャイムが鳴り終わったタイミングで神田が口を開いた。
「日直」
「はい、起立!」
「違う」
神田は日直の号令を不快そうに遮った。正面を向いたまま右手の親指を黒板に向けた。
「消せ」
「は、はい!」
日直の二人はせかせかと進み出て黒板に描かれた間抜けな顔のエスパー少女の絵を黒板消しで消した。仕事を終えると急いで席に戻る。
神田は少し目を細めた表情でクラスを眺めていた。重い沈黙が教室を支配する。
「月山」
教室内に神田の声が響く。
「月山」
「ん? あっ、俺か」
優牙はわざとらしく言った。後ろの席にいる蓮の息を吞む感じが伝わってくる。
「教科書とノートはどうした?」
優牙の机の上は埃一つないピッカピカの状態だった。
「えーと、どこだったかなあ」
「お前は真面目に授業を受けるつもりがあるのか?」
「ありません。ただ卒業証書が欲しいだけです」
「授業の邪魔をするな」
「してません」
「黒板に落書きすることは邪魔ではないのか?」
「俺が描いたっていう証拠でもあるのか?」
「お前以外に誰がこんな真似をする」
「んーと、杉崎茉莉とか」
茉莉が鬼のような形相で優牙を睨みつけてきた。神田よりもこちらのほうが怖い。
神田が小さく溜め息を漏らした。
「お前たちにはつくづく呆れてしまう。お前と、あの、
白石六花」
担任の口から思わぬ名前が飛び出し、優牙は机にガッと両手をついた。担任を挑発することも忘れて訊き返す。
「白石六花? 彼女が何だって?」
神田は答えず、優牙に冷めた視線を向けただけだった。
「授業を始める」
神田は教室内に流れる重い空気もものともせず、淡々と世界史の授業を始めた。
優牙は授業の間もずっと気にかかっていた。神田は六花の何を言いかかっていたのだろう?
授業終了のチャイムが鳴り、神田が教室から出ていくと、優牙は思わずその背中を追いかけていた。
「ちょっと待て」
優牙の声に神田が苛立たしげに振り返った。
「先生には敬語を使え」
「なあ、あの時何を言おうとしてたんだ?」
担任の注意も聞かずに問い質す。
「白石のこと何か言おうとしてただろ?」
神田は石像のような無表情で優牙を眺める。
「本当に卒業するつもりがあるのなら、生活態度を正せ」
神田は優牙の質問に答えるつもりはないようだった。
それ以上優牙が口を開かないと判断したのか、神田は黙って背中を向けて去っていった。
放課後になった。クラスメイトたちが順々に教室から出ていく中、優牙は自分の席に座ったままだった。
「優牙さん、帰らないんですか?」
蓮がまた優しく声をかけてくれる。もういっそのこと本当に付き合ってしまいたい。
「副社長か」
「副社長? それはまたずいぶんと昇進しましたね」
「なあ蓮」
「何ですか?」
「俺のことはいいから、茉莉に構ってやってくれ。あいつここのところ落ち込んでるだろ」
「はい。だけど」
蓮は一度息を吸って間を置いた。
「僕の目には、優牙さんが一番落ち込んでいるように見えます」
優牙は心配そうな蓮の顔を見上げた後、苦笑いした。
今朝方、母の雫にも同じようなことを言われていた。
「俺はそんなに生乾きの洗濯物みたいな顔してるってわけか」
「えっ、何ですか?」
冬のあの日から少し時が経って、少しは持ち直したと思っていた。けれどそれは思い違いのようだった。そう簡単に癒える傷ではない。
『喫茶スローアップ』のカレーが食べたかった。だけどそれを食べたら嫌でも思い出してしまう。
「バスケでもしますか?」
蓮が優しく微笑みながらそう言った。優牙も思わず笑みを浮かべてしまう。我ながら素敵な友達を持ったものだ。
「お前、下手くそだろ」
「はい。でも球拾いぐらいならできます」
「ありがとな。心配してくれて」
「いえ」
「帰ろうぜ」
「はい」
優牙は教室から出る間際、一度振り返って西日に照らされている一つの座席を見つめた。
彼女が座るはずだった、その席を。
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