遥かなる群青

高三・春

疑惑

 学校の体育館裏に落書きが発見されてから一週間が経った。もう誰も、「レッドフード」を話題にすることなどない。

 登校前の朝、リビングの食卓で優牙がトーストをかじっていると、キッチンの近くの壁に寄りかかって立っている母の雫が目を細めた爬虫類みたいな視線を向けてきた。

「しけた面してやがんなあ」

 優牙は表情一つ変えずに咀嚼を繰り返し、コーヒー牛乳を喉に流し込んだ。

「俺の顔は雫の遺伝子でできてるはず」

「そうだよ。だからそんな生乾きの洗濯物みたいな顔されたらあたしのほうまで落ち込むっつーの」

「俺は生乾きの洗濯物みたいな顔なんてしてない。風に飛ばされて地面に落ちた泥だらけの洗濯物の顔だ」

「余計だめじゃん」

「朝なんてみんなそんなもんだろ」

「いいや、少し前まであんたの顔はもっと活き活きとしてた。一本釣りされたピッチピチのカツオみたいにね」

「それ活き活きというより断末魔の足掻きじゃないか?」

「失恋でもしたんだろ」

「さあな」

「図星だろ」

「いいや、梅干しだ」

「煙草吸ってくる」

「勝手にしろ」

 雫は煙草セット一式を持ってベランダに出ていった。

 まったく、朝から騒がしいやりとりだ。

 優牙は支度を終えて、家を出た。マンションの駐輪場でシルバーに跨る。

 通りに出ると、自転車に跨った制服姿の一人の女子の姿が見えた。優牙のほうを向いて止まっている。

「おっはよー」

 茉莉だった。優牙は大きな溜め息を漏らす。

「なに、その反応」

「べつに」

「それにしても奇遇だねえ。こんな時間に偶然鉢合わせするなんて」

 どう見ても俺のことを待ってただろ、という言葉を優牙は飲み込んだ。

「なーに生乾きの洗濯物みたいな顔してんの?」

「お、お前ら以心伝心か?」

「何が?」

「じゃあな」

 優牙は茉莉の横を通り過ぎていこうとする。

「ちょっと待ってよ。登校しようとしたら本当に偶然たまたま出くわした幼馴染の女の子を置いていく気?」

「そのつもりだ」

「薄情者」

「どうしろってんだよ」

「ちょっと寄り道してかない?」

「遅刻するぞ」

「ちょっとだけだから」

 優牙はもう一度溜め息を吐く。話があるなら正直にそう言えばいいのに。

 二人は自転車を走らせる。優牙が真っ直ぐ走っていると、茉莉が前輪をシルバーの後輪にぶつけてきて危うくハンドルを失いかけた。なんて野蛮な幼馴染だろう。

 鉄道が通る鉄橋沿いの土手へやってきた。自転車を停めて、土手の斜面に腰を下ろす。

「委員長が遅刻していいのかよ」

「ダイジョーブ、ダイジョーブ、体調悪くて遅れるって言ってもらう手筈になってるから」

「俺は?」

「行方不明ってことで」

「なに、俺今からお前に殺されて川にでも棄てられんの?」

「そうしてみる?」

「うーん、気分が乗らないからまた今度で」

「それでさあ」

「なんだよ」

 茉莉は両手を膝に置いて俯き加減になっている。溌剌はつらつな茉莉としては珍しい仕草。

「あたし、知ってるんだ」

 茉莉は優牙のほうを見ずに言う。

「優牙と六花の秘密」

 優牙は息を吞んだ。幼馴染の突然の告白に呼吸を忘れた。

 茉莉がちらっと視線を向けて反応を窺ってくる。滅多に狼狽えることのない優牙だが、この時は対応が遅れた。

「絵、描いてたよね」

 優牙は目の前の幼馴染に警戒心を抱いた。優牙の中にある数少ない、触れられたくない箇所。茉莉がそこを荒らそうとしてくる。

「夜遅くに二人で」

 誰にも汚されたくなかった。

 あれは二人だけのものだった。

「『レッドフード』って、六花なの?」

 それは他人が勝手につけた名だ。彼女はただの普通の女の子だ。

「この前の体育館の落書き」

 茉莉は優牙のほうへ真っ直ぐ顔を向けた。

「あれ描いたのって、優牙なの?」

 優牙は茉莉と視線を合わせなかった。六花との思い出に足を踏み入れてもらいたくなかった。

「どうしたの、黙りこくって」

 優牙はちらっと茉莉に目を向けた。

「そうだよ、俺が描いたんだ」

「えっ?」

「それで納得か?」

 茉莉は少し驚いた後、憎らしげな視線を優牙に向けた。

「もう話すことはない」

 優牙は土手の斜面から立ち上がり、尻についた汚れをはたいて停めてあるシルバーのほうへ歩いた。

 体育館に落書きを描いた人間は、『レッドーフード』の正体を知っていた可能性がある。だからうちの学校に落書きを残したのだ。

 優牙が六花と一緒にやっていたことは、誰も知らないと思っていた。しかし茉莉はそのことを知っていた。他に知っている人間はいるのだろうか。

 シルバーに跨り、茉莉のほうを見ると、彼女は土手の斜面に座ったまま項垂れていた。微かにすすり泣くような声が聞こえる。

 そう、時は戻らない。楽しかったあのころは記憶の中にしかない。

 優牙は朝に澄んだ青空を見上げた。

 遠い遠い空を。

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