深夜の逃避行

「優牙」

 夜、優牙が自宅の玄関から出ようとしたところで、背後から呼び止められた。

 振り返ると、母の雫が腕組みをした格好でこちらを見ていた。今日はまだへべれけではない。

「どこに行くの?」

「うーん、具体的には決めてないけど、太陽系内だとは思うよ」

「こんな時間じゃないと駄目な用事?」

「まあそうなるかな」

 母は一度視線を逸らし、腕組みをしながら何度か右足のつま先をパタパタと上下させた。何かを考えている仕草だ。そして再び優牙を見据える。

「あたしは優牙の生活に干渉するつもりはないよ。あんたの人生はあんたのためにある」

「お言葉心入ります」

「でもさ、あたしはこんなナリでも一応あんたの母親だから」

「知ってるよ」

「無茶だけはしないように」

 優牙は思った。きっとこの世で目の前にいるこの人だけだろう。自分の心配をしてくれる人間なんて。

 優牙は気恥ずかしさを隠すようにこう言った。

「誰に向かって言ってるんだよ」

 母の目が見開かれる。

「俺は月山雫の息子だぜ」

 優牙は頭をポリポリと掻く母の姿を尻目に玄関から出た。こんな自分にも帰るべき場所があることは、心強く感じた。

 今日はシルバーは連れていかない。いざという時に枷になる可能性がある。それにシルバーまで道連れにする必要はない。

 寝静まった深夜の住宅街を歩く。一度野良猫が優牙の前を横切っていった。

 公園入り口の車両進入禁止用に立っているアルファベットのAの上部を平たくしたような形の棒に尻をのせて、赤いパーカーのフードを被った人間が座っていた。Aの真ん中の線の部分に足をかけている。

 優牙の脳裏にあの日の記憶が蘇ってくる。

「本当に来てくれたんだ」

 六花のまとう雰囲気が昼間とどこか違っている。声の調子も憂いを帯びているようだった。

「約束しただろ」

「うん。そうだね」

 六花は今日はマスクで顔を隠していない。背中にリュックサックを背負っている。

「でも、今ならまだ間に合うよ」

「何が?」

「グラフィティって、違法なんだ」

「知ってるよ」

「月山くんに迷惑かかっちゃうよ」

「大丈夫だよ。逃げ足には自信がある」

「月山くん運動神経良いからね」

「白石はあまり良くなさそうだ」

「当たり」

「一人じゃない」

「えっ?」

「逃げる時は、一緒だ」

 六花が目を大きく開いてしばらく優牙を見つめた。

 そして何かを振り切るようにして車両止めの棒から下りてタンと着地した。

 体を真っ直ぐ優牙に向け、微笑む。

「ありがとう」

 その六花の言葉にはとても深い意味が込められているように感じた。

 深夜の静かな空気の中、二人は街を歩き出す。世界に二人の足音しか音が存在しないみたいだった。

 世界に二人しかいないみたいだった。

 普通の世界で生きることを拒絶されたみたいに。外へ放り出されたみたいに。

 はみ出し者の自分には心地良かった。

 だけどどうして彼女までここにいるのか。

 夜に紛れようとするのか。

「びっくりしたでしょ」

 六花が唐突にそう言った。横を歩く彼女の顔はフードに隠れて見えない。

「何の取り柄もないただのクラスの女子が、夜中に電車に落書きをしてたなんて」

「ああ確かに。気づいた時はかなり意外だと思った」

「私はどうしてだろうってずっと思ってる。月山くんはどうして私があんなことをしてたのか訊かないんだろうって。わざわざ屋上まで呼び出したのに、どうして訊かないんだろうって。なんで落書きなんかしてたんだって」

「知りたいとはずっと思ってる。だけどたぶん、言いたくないことだろうと思った」

「月山くんは優しいんだね」

「人類史上二人目だ」

「何が?」

「俺のことを優しいって言ったの」

「残念、一人目になりたかったな」

 異性では一人目だよ、と優牙は心の中で思った。

「ねえ、月山くんが訊かないなら私が訊いてもいい?」

「体は最初にどこから洗うのかって?」

「えっ、違うよ」

「じゃあなんだよ」

「どうして私と一緒に来ようと思ったの?」

 六花が足を止めた。優牙も自然と歩みを止めて六花を振り返る。

 六花は真剣な表情で優牙を見据えていた。

 言葉にするのは難しかったが、自分はきっと心を奪われたのだと優牙は思った。

 月明かりの下で見たあの光景。

 赤いフードを被った女の今にも壊れそうな表情。

 あの時に自分の中の何かを持っていかれたのだ。

 盗まれたそれが何なのかを知りたかった。

 それを知れば、この穴の開いた空虚な心にも溜まっていくものがあるんじゃないかと。

「というわけだ」

「えっ? 月山くん今何か考えてたみたいだけど、口に出してなかったよ。私聞いてないよ」

「そんなこといいだろ。どうせ白石に断る権利はないんだ」

「脅してるんだ。ばらされたくなかったらって」

「その通り」

「前言撤回。月山くんは性格の悪い人です」

 そう言って六花は笑った。夜になってから初めて見た笑顔だった。

 二人は再び歩き出す。

「それで、俺なんにも知らないんだけど、これからどうすんの?」

「どうしようね」

「はあ? 落書きってちゃんと計画してからやるもんじゃないの?」

「私は何も考えてないよ」

「マジか。急に不安になってきた」

「じゃあ帰る?」

「帰り道忘れちった」

「じゃあこのまま突き進むしかないね」

「そのリュックの中に入ってんの? ゴキブリ退治するシューってやるやつ」

「ゴキブリは退治しないよ。色が出るんだよ」

「みんなそれで描くの?」

「だいたいそうじゃないかな。フェルトペンで描く人もいるけど。今日会った康広おじさんいるでしょ」

「ああ。鼻の穴が三つあったおっさんね」

「鼻の穴は二つだったよ。おじさんも昔描いてたんだって」

「グラノーラを?」

「グラフィティを」

「へえ、ちょっと意外。だから店名がチェンジアップだったのか」

「スローアップだよ。私おじさんからいろいろ絵の描き方とか教わったんだ」

「あの人は知ってんの?」

「何を?」

「白石が落書きしてるってこと」

「知らないよ。知ってるのは、今私の目の前にいる人だけ」

 六花が楽しげに微笑んだ。

 駅の近くのほうへやってきた。真夜中過ぎのこんな時間でも時折中から音が漏れてくる店がある。コンビニは普通に明るい。

 鉄道の高架下へ来た。短いトンネルになっている。

「この辺でやってみようか」

 六花が足を止めて背負っていたリュックを地面に下ろした。中からスプレー缶を取り出す。

 六花はトンネルの壁を数秒凝視してから、すぐに色を吹きつけ始めた。初めはぼんやりとした輪郭を描いている。

「月山くんも何か描く?」

「いや。俺は間抜けな顔のエスパー少女の絵しか描けないから」

「いいと思うけど、それ」

「あれだろ。やっぱりいろいろあるんだろ」

「何が?」

「違法な行為でも、やっぱりアートなんだろ。素人が手を出すもんじゃない」

「アート、かあ」

 六花はそれきり口を噤んでしまった。

 優牙はクラスメイトの女子が公共物に淡々と色を塗っていく様を黙って眺めた。六花は地道に真面目に絵を描いていく。何をキャンバスにするのかという問題を除けば、それはとても真摯な行為に思えた。

 ある程度進んだところで、六花の様子が変化し始めた。スプレー缶を握る手が小刻みに震えているように見える。淀みなく塗られていた色も乱れ始める。

「やっぱり」

 六花が独り言のようにぼそっと呟いた。

「やっぱり、こんなことしちゃいけないよね」

 その言葉で、彼女が罪の意識に囚われていることがわかった。彼女はやはり真っ当な人間なのだ。破壊衝動を持つ裏の顔があるわけではない。

 それなら。それなら、やめればいいのに。そこまでしてやる必要なんてどこにもないのに。そう言ってやりたかった。けれど、恐怖に打ち震えながら、それでも絵を描き続ける六花の姿を見ていると、その言葉は無粋のような気がした。彼女は必死になって何かを成し遂げようとしている。それが何なのかは優牙にはわからないが。

 その時、左から強い光を感じた。何事かと思って目を眇めながら左を向くと、トンネルの入り口からライトでこちらを照らしている人間が立っていた。青っぽい制服。頭にてっぺんが平たい帽子を被っている。警官だ。

「そこで何をしている?」

 優牙は一瞬で判断し、置いてある六花のリュックを拾い上げ、六花の肩に手を置いた。

「逃げるぞ」

 優牙は、緊張しながら頷いた六花の手を取った。

「待て!」

 威嚇するような鋭い声を置き去りにして、二人は走り出した。

 走りながらちらっと後ろを振り返ると、警官が追ってきていた。こんなガキンチョ放っておけばいいのに。

 ゲホゲホ!

 六花が大きく咳をした。優牙は立ち止まる。

「大丈夫か?」

「ごめん」

 六花は苦しそうだった。こうしている間も警官が近づいてくる。

 優牙たちは駅前の飲み屋の多い通りにいた。

 優牙は六花の手を引き、一度角を曲がった。さっと辺りを見回して、隠れられそうな場所を探す。妥当かどうかわからないが、自販機の側面の陰に六花を押し込んだ。

「ここで待ってろ。すぐ戻るから」

 優牙はそう言い残し、六花から離れる。

 角から警官が現れたところで、優牙はニヤッと不敵な笑みを浮かべた。

「さあ俺はこっちだ。そのへっぴり腰で捕まえてみろ」

 警官を挑発し、こちらへ向かってくるのを確認してから走り出した。

 走り、角を折れて、また走って。

 疲れなど感じない。バスケ部時代のしごきに比べればなんてことない。

 優牙は獣のように走った。近くに獲物がいれば食いつきそうな勢いで。

 繁華街をあちこち走り回ったところで立ち止まる。警官が追ってくる気配はなかった。どうやら撒いたようだ。こんな悪ガキ一人捕まえたところで、給料が上がるわけじゃない。むしろ仕事が増えるだけだ。諦めて正解だよ。

 優牙は時間をかけながら慎重に元いた場所へ戻っていく。途中でばったり警官と出くわすこともなかった。

 六花は優牙の言いつけ通り、自販機の陰に姿を隠したまま待っていた。六花は優牙の姿を認めると安堵の表情を浮かべた。

 まだその辺を警官がうろついているかもしれないので、その場から離れることにした。

 数分歩き、初めて見る公園があったのでそこに入った。六花をベンチに座らせる。

「大丈夫か?」

「うん」

 六花は返事をしたが、とても大丈夫そうには見えなかった。顔色が悪いし、嫌な汗をかいている。

「ごめんね」

「どうして謝る?」

「月山くんに迷惑かけちゃった」

「べつに迷惑じゃない」

「こんなんじゃ、だめだよね」

 六花の両目から涙が流れていた。声が震えている。

 彼女はもうボロボロだった。

「私もう、グラフィティなんてやめるよ」

「……やめるな」

「えっ?」

 六花が驚いて顔を上げた。

「俺がいる。だから、大丈夫だ」

 目を見開いて優牙を見つめる六花の顔が見えた。

 彼女がどうしてそこまでグラフィティにこだわるのかわからない。だから、彼女がそれを話してくれるまで、続けたかった。放っておくことはできなかった。

 六花が赤いパーカーの袖で涙を拭った。ベンチから立ち上がり、優牙を見据える。

「月山くん」

「下の名前は優牙だよ」

「じゃあ優牙くん」

「なんだよ

「ありがとう」

 彼女の微笑みは美しかった。きっとどんなアートよりも。

 そして春が過ぎていった。

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