約束
その日の学校では、多くの生徒が一つの話題について話していた。
それは電車に描かれた落書きについてだった。近くを通る路線の車両に、桜の絵が描かれていたのだ。
今朝の通勤時間に落書きを見つけた人間が写真を撮り、それをSNSに上げたことで情報が広まった。暇を持て余している者たちはそれを話のネタにして、憂鬱な朝の時間をやり過ごしていた。
優牙は昨夜の出来事が頭の中を何度も巡り、一睡もせずに登校した。
線路の上で出会った赤いフードの女とは、一言も言葉を交わさずに別れた。その出来事がどこか不思議で、もしかすると夢を見ていたのではとさえ思った。
「ねえ六花、だいじょぶ? なんかクマできてない? 寝不足?」
「大丈夫だよ」
近くから幼馴染の杉崎茉莉の声が聞こえた。誰かと話している。
優牙が何気なく視線を向けると、茉莉の向かいで席に座っている女子と目が合った。
体の中で何かが奔った。それは相手も同じようだった。
そこにいるのは、クラスの中でも目立たない地味な部類の女子だった。ただ一つだけ特徴がある。名前が印象的だった。確か、六に花と書いて、りっかと読んだ。白石六花だ。茉莉と一緒にいることが多いので、なんとなく覚えていた。
優牙を見つめる六花の瞳が、震えているように見えた。
「どしたの六花」
「ううん、なんでもない」
茉莉に呼ばれた六花は優牙から目を逸らせた。
その時驚くべきものが優牙の目に入った。
六花が何気なく机の上に投げ出している腕の先。制服の袖から出た手首に、昨夜目にしたミサンガを見つけたのだ。月明かりと線路を照らすライトの下で見た、それ。優牙の手を握り返した女の手に巻かれていた。
一限目の現国の授業中、優牙は教師の話をまったく聞いていなかった。教師の話を聞かないことはいつもと一緒だが、この時は事情が違った。
優牙は昨夜の記憶の中の赤いフードの女と、今同じ教室の中にいる一人の女子の姿を照らし合わせた。落書きをしていた女は顔の大半を隠していたが、似ている気がする。何より六花の反応だ。授業中、六花が何度か優牙のほうへ視線を向けた。自意識過剰ではなく、確かに優牙を見ていた。六花は終始落ち着かない様子で、シャーペンを二回も床に落としていた。
これまで優牙にとって六花は単なる真面目でつまらないクラスメイトだった。用もなく言葉を交わしたこともない。まさか夜中に隠れてあんなことをしていたなんて、夢にも思わない。
優牙は一限目の授業時間を使い、自分がすべき行動を決めた。ノートの端にメモを書き、ちぎった。休み時間に入ったところで、優牙は何気なさを装って六花の席の傍を通り、そのメモを机の上に置いた。六花はすぐに気づき、メモを拾い上げて眺め、すぐに隠した。茉莉にでも見つかったら面倒だと思ったのかもしれない。優牙にとってもそのほうがありがたかった。
『昼休みに屋上で待ってる』
まるで告白でもするシチュエーションのようで、優牙は気恥ずかしかった。しかし彼女から話を聞く必要があった。他に誰もいない場所で。
優牙は四時限目の授業をサボった。購買でいち早くたまごサンドとコーヒー牛乳を購入した。今日は二セットだ。屋上への扉は鍵がかかっているが、優牙は前もって屋上で練習することのあるダンス部の人間から鍵を借りておいた。べつに悪いことに使うわけじゃない。落書きでもしようというわけではないのだから。
優牙は屋上へ入り、フェンスの前であぐらをかいて六花が来るのを待った。
昼休みに入ってから数分後、屋上の扉が開く音がした。
六花だった。セミロングの黒髪が風になびいた。
優牙はこのクラスメイトの顔をまじまじと眺めたことがなかった。真面目で目立たない印象しかなかったが、六花はとても可愛らしい顔つきをしていた。穏やかで、控えめで、品のある。ますます電車に落書きをしていた人間とは思えない。
「おっす」
とりあえず声をかけてみた。緊張している様子の六花が、少しだけ微笑んだ。
「こんにちは」
ゆったりとした話し方。常に刺々しい優牙とは真逆だ。
六花が近づいてくる。そして優牙まで二メートルぐらいの位置で止まった。
そよ風が吹く。
「座ったら?」
フェンスを背にして座っている優牙は、自分の横の何もない床を示した。
六花は頷き、優牙の隣に腰を下ろした。
「はいこれ」
優牙は購買で購入したワンセットを六花に差し出した。六花は戸惑いの表情を浮かべる。
「えっと。たまごサンドと、コーヒー牛乳?」
「最強だろ?」
「……ふふっ。そんな最強セットをもらっていいの?」
「かまへんかまへん」
「月山くんって、関西出身?」
「いいや、東京」
六花は最強セットを受け取った。
優牙はコーヒー牛乳のパックにストローを差し、少量をすすった。それからたまごサンドを一かじりする。その様子を見届けた六花も、同じように食事を始めた。
「白石ってさ」
優牙の声に六花が顔を上げる。
「絵上手いね」
六花がポカンとした顔になった。この話の切り出され方は予想していなかったのかもしれない。
「ネズミにまだ色を塗ってなかった。何色に塗るつもりだったんだ?」
優牙を見ていた六花が小さく目を見開き、それから目線を逸らせて苦笑いし、溜め息を漏らした。
「あのネズミには、色が無いの。透明のネズミ」
「なんで?」
「えっ?」
「なんであのネズミには色が無いんだ?」
「……それは」
六花は言い淀んだ。彼女の中で何かが葛藤している。
まあいい。もう彼女は認めたのだ。電車に落書きをしていた人物は自分であると。
「一つ交渉したい」
「交渉?」
優牙の言葉に六花が疑問を抱いた。
「昨日の夜目にしたことは、他の誰にも言わない。ばらされたらいろいろと困るだろ? そのかわり、約束だ」
「何を?」
「次にまた絵を描く時は、俺も誘ってくれ」
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