高二・春

深夜の巡り逢い

 日の沈んだ公園にボールの弾む音がこだましていた。

 優牙は頭上にボールを構え、シュートを放つ。ボールはバスケットのリングを音もなく通過した。リングのネットはだいぶ昔に取れてしまっている。パシュッという小気味良い音のかわりに地面に落下したボールの鈍い音が響く。優牙はゴール下を転がるボールを取りにいき、ドリブルを再開した。

 住宅に囲まれたさして広くもない夜の公園。優牙の他に人はいない。

 優牙は以前バスケ部に所属していた。毎回スタメンを張れる腕前だった。得点能力は一番と言ってよかった。

 技術に問題はない。精神も自分の中では問題はなかった。ただ周りはそうは思わなかったようだ。

 集団で過ごすことは軋轢あつれきを生む。優牙は自分が正しいと思うことをした。しかし自分の正しいと他人の正しいは違った。優牙は試合に勝利することを目指した。チームメイトの至らない部分を指摘し、時に罵声を浴びせることもあった。それはそいつにとって、正しいことではなかった。自分の力のなさを顧みるより、優牙に否定された事実を受け取り、膨らませた。優牙はチームメイトたちから疎まれるようになった。

 優牙はチームの中で孤立した。それでもべつに構わなかった。仲良しこよしのおままごとをするなどまっぴらだ。しかしある日、優牙はスタメンから外された。その日以来、優牙がバスケットシューズを履くことはなかった。

 夜の公園に響くドリブルの音は、どこか虚しかった。

 優牙はボールを公園の隅に停めていた自転車シルバーのカゴに入れ、住宅街を走り出す。

 路上に風に吹かれた桜の花びらが散らばっていた。花咲く春。

 優牙の心は常に満たされない。きっと自分は欠陥品なのだろう。どこかに穴が開いていて、入れた傍から漏れていく。

 駐輪場にシルバーを停め、マンションの自宅に帰った。

 リビングに入ると強い酒の臭いがした。テーブル上のそこかしこに並ぶビール缶が目に入る。ソファに母の月山雫つきやましずくがいた。雫は優牙の顔を見上げる。

「うぃ~す、ただいま~」

「おかえり、だろ」

 へべれけの母は既に焦点が定まっていない。

「ゆーがも飲むー?」

 母はテーブル上のティッシュの箱を持って優牙に差し出すようにした。もはや酒とティッシュの区別もついていない。

「未成年に酒を勧めるな。それに、俺はあんたみたいになりたくない」

「ちょっとー、あんたじゃないでしょー? ちゃんと名前で呼んでー」

「……雫」

「うへへへへへへ」

 母は優牙に自分のことを名前で呼ばせていた。それが月山家唯一のルールだ。

 母は結婚したことがない。身ごもった優牙をたった一人で育てた。高校にだって通わせてくれている。優牙にはそれがどれだけ大変なことなのかわからなかったが、誰にでもできることではないと思っている。だから母の乱れた生活や多少のわがままには目を瞑っていた。

 優牙はシャワーを浴びて、自室に入った。零時近かったが、眠気はまったくない。

 ベッドの上でしばらく漫画を読んでいたが、どうも落ち着かなかった。エネルギーがあり余っている。優牙はスマートフォンと財布を手にして自室を出た。

 リビングのソファで母が力尽きている。優牙はブランケットを持ってきてそっと母の体に被せた。普通にしていたらきっと美人なんだろう。優牙という重りさえなければ、素敵な恋愛だってできるはずだ。優牙は早く自立をしたかった。進学するつもりはまったくない。

 マンションの部屋から出て、玄関の鍵をかけた。

 駐輪場に行き、シルバーに跨る。

 目的はなかった。涼しげな風を感じながらただただ深夜の街を走った。

 時刻は午前二時過ぎ。滅多に人けはない。

 このまま夜の世界へ溶け込んでしまいたかった。二度と戻れなくたっていい。どこかここではない世界へ身を投じてしまいたい。

 過ぎ去っていく景色。月だけがずっと優牙を眺めている。

 線路の上で停まっている電車が見えた。終電から始発までの間の待機場所、留置線だ。

 その電車の傍に、人が立っていた。遠目でもわかる赤いパーカーのフードを被った人間。こんな時間に線路の上で一体何をしているのだろう? 興味の惹かれた優牙は、線路沿いの道でシルバーを停止させて観察した。

 どうやらその赤いパーカーの人間は電車に落書きをしているようだった。缶のようなものを持って色を吹きつけ、鮮やかな塗装を施している。

 なぜそんなことをするのかわからないが、いい度胸だ。捕まったらどうするのだろう? まるで見つけてくれと言わんばかりの赤いパーカーも気になった。

 優牙はシルバーを道の路肩に停め、線路との境にある柵をよじ登った。

 線路の上に降り立つ。意味もなくスニーカーの底を鉄のレールに擦りつけてみた。普段線路に立つことなどない。背徳感が心臓を刺激した。

 赤いパーカーの人間は優牙に気づいていない。絵を描くことに集中している。もっと周りに気をつけるべきだ。

 電車に描かれているのは、桜の絵だった。意外だ。こんなことをするぐらいだから、自己主張の強いもっと野蛮な絵だと思った。

 桜の木の下に、何かの生物が描かれている。よく見ると、それがネズミだとわかった。ネズミにはまだ色が塗られていない。

 ジャリ、と足元で音が鳴った。

 失態だ。もう少し観察していたかったのに、線路に敷き詰められた石を踏んで音を出してしまった。

 赤いフードの人間が優牙を振り返った。

 一瞬、時が止まった。

 体中を電気が奔ったようだった。

 二人は見つめ合った。その数秒の出来事は、永遠のようにも感じられた。

 赤いフードの人間は黒いマスクをしていて顔の大半が隠れていた。それでもそれが若い女の顔だとわかった。

 女の目尻から、一筋の涙がすーっと頬へ伝っていった。

 泣いている?

 女の体は小刻みに震えていた。

 優牙は無意識のうちに一歩前へ進み出た。

 女は突然我に返り、身を翻して逃げ出そうとした。そしてレールに足を引っかけ、転んだ。持っていたスプレー缶が音を立てて転がる。

 その時自分が何を考えていたのか、優牙にはわからなかった。ただ自分がした行動だったらわかる。優牙は転んだ女に近づき、右手を差し出したのだ。

 優牙に気づいた女が、線路に尻をつけた体勢のままこちらを見上げた。差し出されている右手の意味を考えている。そして、手を伸ばした。

 体が触れ合った。

 心が、触れ合った。

 袖から出た女の手首にミサンガのようなものが巻かれていることに気づいた。

 深夜の空には、月が光っていた。

 春の風を感じた。

 季節が、動き出した。

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