囚われのネズミ

 三年F組、帰りのホームルーム。担任の神田がいつもの不機嫌な表情を浮かべて口を開く。

「さて、諸君らも承知している通り、今学期はきみたちの進路が決まる大事な年となっている。

 授業中に廊下をうろついたり、授業に出たかと思えば教科書もノートも出さず頬杖をついて呆けたような顔をしていたり、黒板消しをドアの上部に設置して時代遅れの罠を仕掛けたりするような、馬鹿で無様な真似をする暇などないはずだ。足を引っ張る者のことは気にせず自身の目標に向かい邁進するべきだろう」

 この教師はわざわざ気に障る言い方をする。それはほとんどが優牙に向けられた嫌味だった。見せしめのようにクラスメイトたちの前で言う。性根が悪い。

「どうやら先日校内で落書きを働いた人間もいるようだ。非常に浅ましく卑劣な行為である」

 神田がまるで優牙が落書きをした犯人であるかのように見下すような目を向けてきた。

 優牙は自身の中で沸々と燃え上がる感情とともに神田を睨み返した。初めて会った時からこの担任とは相容れない。

 神田は冷めた目つきのまま、興味を失ったように優牙から視線を逸らせた。

 ホームルームが終わり、生徒たちは各々のタイミングで教室から去っていく。

 優牙が椅子にふんぞり返るような体勢で座ったままでいると、蓮が見える位置にきて声をかけてきた。

「優牙さん、帰らないんですか?」

「係長か」

「係長? 課長から降格してしまいましたね」

「大丈夫、俺は一生平社員だから。平目だから」

「もはや人間ではなくなってしまっています」

「蓮に訊きたいことあるんだけど」

「何ですか?」

「お前今付き合ってる?」

「そそそそそそんな、まままさかまさかまさか」

「なんなんだよそのキョドりぶり。どっちの反応なのかわかんねえよ。お前は平目か?」

「平目ってキョドるんですか?」

「まあ本当に訊きたいのはそんなことじゃなくて」

「はい」

「この前体育館に落書きあっただろ?」

「はい。巷で噂のレッドフードかもしれないってやつですね」

「あの落書き、誰が描いたと思う?」

「気になるんですか?」

「ああ」

「僕が描きました」

「えっ?」

「と言ったらどうします?」

 蓮が悪戯っぽい笑みを向けてきた。元々中性的な顔立ちの蓮は、そんじょそこらの女子より可愛いかもしれない。

「蓮、俺と付き合ってくれ」

「えっ!?」

 聞き耳を立てていた近くの女子たちが黄色い声を上げた。

 蓮は顔を真っ赤にして狼狽えている。今にもやかんみたいに湯気を吹き出しそうだ。

「冗談だよ」

「わ、わかってますけど」

「可愛いやつだな」

 再び女子たちから歓声が上がる。

 羞恥に耐え切れなくなった蓮が優牙を尻目に見ながら走って教室から逃げ出していった。後でアフターフォローをしておこう。なんだか面白そうだから、恋人同士という設定で。

「さてと」

 優牙はスクールバッグを手にして立ち上がった。

 今日は行っておきたい場所があった。



 さあ行け、シルバー!

 優牙は心の中で掛け声を上げた。実際に口に出さないのは、周りに聞かれたら恥ずかしいからだ。

 優牙は高校に自転車通学をしている。そして自分が乗っているいたって一般的な形状の自転車にシルバーという名前をつけて呼んでいる。毎日自分を乗せて走ってくれているのだ、それぐらいの愛着はあって然るべきだろう。決して未だに中二病を患っているわけではない。

 シルバーを走らせて、東京の街を行く。東京は空が少ない。そこかしこに建物が立ち並び、目にすることができる空の面積を遮っているからだ。

 線路沿いの少し寂れた通りにある目的の喫茶店に着いた。

『喫茶スローアップ』

 入口の前にシルバーを停め、扉を開けて中に入った。カランコロンと小気味良い音が鳴る。

 木の温もりを感じるレトロな雰囲気の内装。入口から見て右手にカウンター席、左手にボックス席が四つある。

 奥のほうから小さな女の子がこちらへ向かって走ってきた。しかし女の子は来客した人間が誰かに気づくと急に立ち止まり、回れ右をして逆走していった。カウンターテーブルの端に隠れ、顔だけ少し出してこちらを窺っている。遠藤小玉えんどうこたまだ。確か今は五歳だったはず。隠れているくせに好奇心たっぷりの目を優牙に向けている。

 優牙が店の中を進んでいくと、カウンターの奥に図体のでかいエプロン姿の男が見えた。遠藤康広えんどうやすひろだ。

「ちっす」

 優牙が声をかけると、大きな体に柔和な顔つきの康広が笑みをこぼした。

「やあ、優牙くんじゃないか。久しぶり」

「前世以来っす」

「今世でも会っただろう」

「カエルだった時に会いました」

「前世はカエルだったのか。道理でジャンプ力が高いわけだ」

「康広さんのカレー食べにきました」

「そうか。ちょっと待っててくれ」

 優牙が康広とやりとりしている間も、小玉はずっと顔を半分出した体勢で優牙のことを眺めていた。優牙がちらっと視線を送ると、小玉ははにかみながら嬉しそうに笑って顔を隠した。しばらくするとまた少し顔を出してこちらを見てきた。

 優牙はカウンター席の丸椅子に座った。ボックス席は二ヶ所埋まっているが、他に客はいない。小玉がまだこちらを見ているので、優牙は自分の隣の椅子をポンポンと叩いて座るよう促した。すると小玉はなぜか奇声を上げながら走って奥のほうへ引っ込んでいった。なんなんだ一体。

「小玉がずっと優牙くんに会いたがっていたよ」

 康広がそう言いながらカウンター越しに優牙の前にカレーライスの皿を置いた。左のほうに顔を向けると、小玉がまたひょっこり顔を出していた。

 優牙はスプーンを持ってカレーをすくう。一見シンプルなビーフカレーだが、ここのカレーは一味違う。優牙の経験値では何がどう違うのか解明することはできないが、とにかく美味いのだ。優牙はこの喫茶店にくるたびにカレーを食べている。

 カレーを半分ほど平らげたところで、優牙はスマートフォンを取り出した。

「康広さんに見てもらいたいものが」

 優牙はそう言ってスマートフォンの画面を康広に見せた。

 それを見た康広は一瞬目を見開き、数秒時が止まったように停止した。優牙はその様子をじっと観察した。

 優牙が見せたのは、学校の体育館裏に描かれていたグラフィティの写真だ。桜の木とモノクロのネズミの絵。

「これがうちの学校にあった」

 優牙はスマートフォンをテーブルの上に置いた。いつの間にか近くにきていた小玉が見たそうにしていたので、彼女にも見せてあげた。

「ネズミしゃんだ」

 小玉が耳にくすぐったいような可愛い声で言った。

「康広さん、この絵に心当たりある?」

「見たことがある。結構有名なライターの絵だろう?」

「それ以上のことは?」

「それ以上のこと?」

「誰が描いたのか。何のために描いたのか」

「……わからないな」

「そう。ならいいんだ」

 優牙は無理に尋ねることはできなかった。そうすればこちらもあの秘密を話さなければいけなくなるからだ。誰にも言いたくはなかった。誰にも。

「ねえこのネズミしゃんはどうして色が無いの?」

 まだスマートフォンの写真を見ていた小玉が言った。

 優牙は苦笑いを浮かべながら答える。

「そのネズミは、過去の季節に囚われたままだからだよ」

 そう、まるで今の自分のように。

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