あの人のこと
「ねえ、『レッドフード』ってさ、もしかしてうちの学校の生徒だったりしない? だったらヤバいよね。有名人じゃん。
電車とかにも描いたんだよね。すごっ。捕まったらどうすんだろ。
そういえばなんでレッドフードって呼ばれてるんだっけ? ああそっか、赤いパーカーのフード被ってるんだっけ。超目立つね。
ネットでレッドフードの正体は七十五歳の腰の曲がったおじいちゃんとか書かれてたけど、あれ絶対嘘だよね。ぷふっ。腰の曲がったおじいちゃんて。
えっ、今日数学も小テストあるの? やばっ! ノート見せて見せて!」
優牙は、体育館裏の落書きの写真を撮った後、誰もいない体育館で一人バスケをしていた。ボールが床を打つ音が朝の静けさにやけに響く。
一限目が始まる時刻が迫ってくると、体育館に体操服姿の下級生たちが入ってきた。下級生たちは制服姿でバスケをしている優牙に気づくと気まずそうにコソコソしていた。
優牙は最後にスリーポイントショットを放ち、リングに弾かれて床を転がっていくボールを放置して体育館から出ていった。
今さら一限目の授業に出るのも億劫なので、意味もなく校舎内をうろうろした。
自分のクラスの三年F組の教室を通りかかった時、わざと教室の右前方にあたるドア窓から自分の顔が見えるように何度か通り過ぎたりバックで戻ったりした。教師がいる教卓の近くに優牙の真顔がパントマイムみたいな要領で何度も出たり消えたりすることに気づいた生徒何人かがクスクスと笑った。
しばらくして校舎内を歩き回るのも飽きたので、階段に座ってスマートフォンをいじりながら時間を潰した。チャイムが鳴り一限目が終わったタイミングで教室に戻った。
ホームルーム前にレッドフードの話をしていた女子たちがまたレッドフードの話をしていた。どうやらレッドフードの正体は七十五歳の腰の曲がったおじいちゃんらしい。笑ってしまう。
「優牙さん」
すぐ後ろの席から名前を呼ばれた。
優牙は椅子に座ったまま後ろを振り返る。そこに線の細い気弱そうな顔の男子、
「どうした課長」
「えっ、課長? いや」
「オムツを替えてもらいたいのか?」
「オムツ? いえ、そうではなくて」
「ミルクか? ママのミルクが欲しいのか?」
「違います、僕は赤ん坊ではありません。赤ん坊の課長って何ですか?」
「じゃあ何の用だ? 一緒に授業をばっくれようっていう魂胆か?」
「ばっくれません。あの。さっき優牙さんが出ていったのって、体育館の落書きを見に行ったんですよね?」
「……」
「図星ですね?」
「いいや、梅干しだ」
「梅干し……」
「どうしてそう思った?」
「なんとなく、です」
「そうか。蓮のなんとなくは、ほぼ確信だろ。なんとなくで口を開くような度胸はお前にない」
「そう、ですね。優牙さんの言う通りです」
「お前さあ」
「はい」
「いつまで俺に敬語使うの?」
「とくにいつまでとは決めていませんけど」
「じゃあ今やめたら?」
「えーと、それはちょっと」
「ちょっと、ちょっとちょっと」
「はい?」
「優牙ー!」
攻撃的な声色とともにショートカットの女子がフレームインしてきた。三年F組の委員長、
「おっ、お茉莉だ」
「お祭りみたいなニュアンスで呼ぶな」
「お前もミルクか?」
「はあ? ていうかあんたさっきの時間どこ行ってたの? 優牙のせいであたしが神田にこってり絞られたんだからね。ネチネチネチネチ」
「それは悪かった。後でコーヒー牛乳おごるから」
「……なら、いいけど。って、星村なに笑ってるの?」
「いえ、簡単だなと思ったわけではなくて」
「星村からもちゃんと言い聞かせておいてよ。こいつ人の言うこと聞かないけど、星村の言うことならほんのちょっとだけ聞くでしょ」
「僕の言うことだって聞きませんよ。白石さんの言うことだったら……」
蓮の声が尻すぼみに小さくなっていった。
三人の間に沈黙が降りる。
他のクラスメイトたちの話し声がやけに大きく聞こえた。
何かに耐えるようにして唇を噛む茉莉の顔が見えた。今にも泣きそうな、悲痛な表情だ。
見兼ねた優牙は口を開く。
「わかったわかった。あとたまごサンドもつけるから」
「……約束だからね」
それで三人の会話は閉じた。
席に戻り、各々が想いを馳せる。
体育館裏に描かれた落書きの話はあっという間に学校中に知れ渡った。
ネットへも拡散されていく。
久々に『レッドフード』が現れたと。
教師陣の手によりその日のうちに落書きは消されたが、後の祭りだった。
それから数日間、他校の生徒やネットの動画配信者などが学校の近くをうろついたり、校内に現れることもあった。
しかしそんな騒ぎもすぐに収束する。流行りはすぐに過ぎ去る時代だ。
優牙には予感があった。きっとまた、『レッドフードの落書き』が発生する。『彼女』の真似をする下卑た輩が現れると。
胸がざわざわした。何も感じなくなっていた心に土足で上がり込んでくるものがある。
止まっていた季節が、再び動き出した。
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