恋するグラフィティ
さかたいった
モノクロの季節の中で
高三・春
体育館裏の落書き
「ねえ、『レッドフード』って知ってる?
違う違う、そっちじゃなくて。
ほら、ちょっと前に流行ったじゃん。待ち受けにしたら幸せになれるってやつ。恋運上昇155%ってやつ。そうそれ。落書きの。白黒のネズミ。
それがどうしたって? 出たんだよ、うちの学校に。
バスケ部の連中が見つけたらしいよ。体育館裏の壁にあったんだって。煙草の吸い殻? 違うってば、落書き。なんか本物らしいって。
ほらもうSNSで出回ってる。後で撮りにいこうよ。早くしないと消されちゃいそうじゃん。
えっ、今日英語小テストあるの? やばっ!」
眩い日差しの降り注ぐうららかな春の日だった。
朝のホームルーム前の三年F組の教室にはのんびりとした光景が広がっている。仲の良いグループで集まって話し込む者。熱心にケータイの画面を眺めている者。接着剤でくっつけられたみたいに机の上に上半身を投げ出している者。自分が地球人であると信じ込んでいるみたいに教科書とノートに忙しく目を走らせている者。いつもの光景だ。
優牙は後ろの席にぶつからない程度に椅子を引いて立ち上がった。そして教室の後ろのドアのほうへ向かう。
後ろの席に座っていた男子が戸惑ったように顔を見上げた。
「優牙さん?」
優牙はか細いその声を無視して教室から出ていった。スラックスのポケットに手を突っ込んで廊下を歩く。
階段のところまでくると、下から上がってくるスーツ姿の男が見えた。担任の神田だ。まるで人生で一度も笑ったことがないようなきつい顔つき。負の彫像。実際、優牙は神田の笑顔を一度も見たことがなかった。
「月山」
優牙が階段ですれ違おうとすると、重低音の声で名前を呼ばれた。優牙は聞こえなかったふりをしてやり過ごそうとする。
「月山」
一回目より少しだけ強い調子の声。踊り場まで進んだところで振り返ると、階段の半ばで神田が憎らしげな表情を浮かべてこちらを見下ろしていた。
「あっ、そうか、俺は月山って名前だったっけ。忘れてました」
「どこへ行く?」
「ションベンっす」
「トイレは上の階にもある。もう一度訊く。どこへ行く?」
「この世の森羅万象を理解しに」
「森羅万象の前にテストで赤点を取らない方法を覚えたらどうだ?」
「うーん。気分が乗らないからまた今度で」
「勝手なことをするな」
「……指図するな」
「なんだと?」
「俺が何をするかは、俺が決める」
優牙は眉間に皺を寄せた担任の顔の残像を視覚に残しながらその場から立ち去った。
昇降口へ行き靴を履き替えて、校舎の外へ。
校内の敷地に植えられた桜の木が目につく。春の風の匂いがした。
世界は季節模様に色づいていく。
時を止めた者だけを残し。
それは美しく、そして残酷だった。
チャイムが鳴った。ホームルームが始まった時刻だろう。
柔道場を通り過ぎ、体育館に着いた。
レッドフード。
そのワードが久しく停止したままだった優牙の精神を刺激した。
確かめなければならない。
だが、一体何を確かめるというのか。わかりきっていることだ。
きっと自分はすがりたいのだ。それが嘘だとわかっていても。
体育館裏に回った。元はもっと白かっただろう体育館の壁は長年風雨に晒されたことで黒ずんでいる。その一角に見つけた。
視覚から得られた情報が記憶と結びつき、込み上げてくるものがあった。
体育館の外壁にスプレーで描かれていたのは、桜だ。幹が大きく二つに分かれている桜の木。幹の先はさらに幾重にも枝分かれし、桃色、薄紫、白の花がぎっしりと咲き誇っている。鮮やかで、とても精巧な絵だ。そしてその華やかさとは対照的に、桜の木の下に色を失った一匹のモノクロのネズミが描かれている。レッドフードのシンボルマークと言えるネズミが。まさしくレッドフードの絵だ。
誰かがレッドフードの真似をして、この絵を描いた。しかしこれは軽い悪戯ではない。まるでレッドフードの絵そのもののクウォリティだ。優牙は何かしらのメッセージ性を感じた。だけど誰が何のために。
その時近くからガサガサと物音がした。
優牙は反射的に音がした方向を向いた。
茂みが見えたが、何もいない。少し待ったが何かが動く気配はない。
優牙は体育館の壁に描かれた
これでは他のミーハーな連中とやっていることは変わらない。その行為を少し恥ずかしく感じた。しかし、必要なことだった。
これは冒涜だ。誰がこんな真似をしたのか暴き、尋問しなければならない。二度とこんな真似できないよう、懲らしめなければならない。
優牙は知っている。優牙だけが知っている。
『レッドフード』はもういないことを。
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