第36話


 宵闇の中に伸びる一筋の赤い糸。

 結也しか見ることのできないその糸は、まるで彼の事を何処かへ導く様に自身の左手から真っ直ぐにどこかへ伸びている。


 結也は止まっていた足に活を入れてもう一度走り出す。目の前に見えるたった一本の赤い糸、それを辿りながら。


 この糸が一体どこに繋がっているのかそれは分からない。ただそれでも結也には殆ど確信に近い予感があった。


 この糸の先にきっと――。


 結也は迷うことなく真っ直ぐに、夜の街を走り抜けていった。




 汐里がいたのは猫の額ほどしかないような小さな公園だった。ブランコと滑り台が申し訳程度に置かれ一番奥にベンチが一つだけ。


 汐里はその一番奥のベンチで一人座っていた。公園の中は街灯の光が届いていないのか非常に暗く、奥のベンチに座る汐里にはよく眼をこらして確認しなければ気づけない程だ。


 ――前にもこんなことがあったな。


 と結也は少しだけ過去のことを思い出していた。あれはまだ汐里と会ってそれほど日が経っていない頃の話だ。


 恋に破れ放課後の渡り廊下で窓の外をただぼんやりと眺め、目から涙が流れていないだけでその姿はまるで泣いているようだった。


 その時結也は彼女になにをしてあげればいいのか分からず、結局なにもすることが出来なかった。

 横で堪えるように泣く彼女の声を、ただ黙って聞いている事しか出来なかった。


 汐里はベンチに座りながら、あの時と同じぼんやりとした瞳で夜空を見るでも無く見上げている。


 結也はゆっくりと歩み寄り、ベンチに座る汐里に声を掛けた。


「隣いい?」


 その時、汐里は初めて結也の存在に気が付いたみたいに驚いた顔をした。


「出雲君……どうしてここに?」

「どうしたもこうしたもないよ、日野さんがいつまで経っても帰ってこないって皆で大騒ぎだよ」


 言いながら結也は汐里の隣に腰を下ろす。


「もうそんな時間なんですね。ごめんなさい、気が付かなくて」


 汐里の母親が言っていたように汐里の様子は一見すれば、いつもと大して変わっていないように見えた。


「でもそんなに心配なんてする必要なかったのに、ちょっと外の空気を吸いたいなって思っただけで。だいたい私もう高校生なんですよ、ちょっとくらい帰りが遅くなったくらいで、大騒ぎなんて大袈裟ですよ。なんて、そんなこと言ったら罰が当たっちゃいますね」


 何てことを言いながら汐里は小さく舌を出して見せた。


 そんな汐里の様子には落ち込んでいるような気配はどこにもない。寧ろいつもよりも少し喋るくらいかもしれない。


 ただそれでも彼女はベンチから立ち上がって家へ帰ろうとはしなかった。

 今彼女がなにを思ってなにを望んでいるのか、正直結也には見当もつかない。


 情け無いが何て声を掛けて、何をすればいいのか何一つとして分からない、それはあの時と何も変わらない。


『結局、おめぇのやりたいようにやるしかねぇじゃねぇのか』


 ついさっき聞いた栄介の言葉を思い出す。


 ああ確かにその通りだ。


 だから結也はその時、自分が彼女にしてやりたいと思ったことを、素直に実行することにした。


「えっ」


 息を呑むような汐里の声が耳元で聞こえる。

 結也が汐里のことを抱き寄せたのだ。


「あのっ! どうしたんですか、いきなり、こんな」

「大丈夫」


 汐里の耳元で結也が囁く。


「大丈夫って、一体何を言って」

「大丈夫、大丈夫だから」


 何が大丈夫なのか、白状すれば結也にもよく分かっていない。

 汐里の父親の事のような気もするし、他の何かのような気もする。


 ただ結也は汐里に安心して欲しかった。

 少しでもその事が伝わればいいと、結也は汐里を抱く両腕に少しだけ力を込める。


「だから大丈夫って、いったい、なに……ぉ」


 その言葉には僅かに嗚咽が混じり始め、汐里は目元を結也の肩へと強く押しつけた。


「……私の……私のせい、なんです」


 肩に目元を押しつけたまま、嗚咽混じりの声で汐里は話し始める。


「私があの日、迎えに来てなんて言わなければお父さんは事故になんて合わなかったのに。雨なんて我慢すればよかったのに、私が面倒くさがったせいで、お父さんが」

「それは違う」


 結也は片手を汐里の頭の上にのせて、そのまま彼女を優しく撫でた。


「日野さんはあの時、お父さんが事故に遭ってしまえなんて思ってなかっただろう? きっと日野さんのお父さんだってそうだよ、事故に遭いたいなんて思ってなかったし、事故に遭ったことだって日野さんのせいだなんて思っていない。ただ、運が悪かっただけだ」


「でも……でもぉ……」

「でもじゃない。それよりも自分が事故に遭ったせいで娘が自分の事を責めてるなんて、そっちの方がお父さん傷付くと思う」

「そうかなぁ、お父さん許してくれるかなぁ」

「ああ、きっと」


 絶対とは言わない。自分は汐里の父親じゃないし、今まで会ったこともない。そんな人の気持ちを想像だけで絶対だなんて言えるほど無責任にはなれない。


「でも、もし万が一、そうじゃなかったとしても」


 汐里の父親の気持ちは結也には分からないけれど、ただ一つだけこれだけは何があっても絶対に覆らないと誓えることがある。


「俺は許すよ、日野さんのこと。俺は日野さんは悪くないって言うから。約束する」


 こんな約束にどれほどの意味もないかもしれない、だけどただこれだけが、結也が絶対と言える唯一の真実だった。


 汐里は自身の目元を結也の肩に押しつけたままただただ泣き続けた。

 いつかのように堪えるような物ではなく、まるで子供のようにわんわんと大きな声で彼女は泣き続けた。


 その間結也はずっと彼女を抱きしめ、ゆっくりと彼女の頭を優しく撫でた。

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