第29話
結也が着ていた浴衣は幸い切れたりほつれたりこそしていなかったものの、案の定、袖や裾が泥や草の汁で汚れてしまっていた。
当然それを見て栄介は眼を丸くしていたがその場にいた汐里が事情を話すと「そうか」とそれ以上はなにも言わず、朝方結也と一緒に浴衣の持ち主に謝りに行ってくれた。
浴衣の持ち主は事情を話すと「そういうことなら」と気前よく許してくれて、浴衣はクリーニングをしてから返すことになった。持ち主の人は遠慮していたが流石にそこまで甘えるわけには行かない。
クリーニング代を結也は自分で持とうと思っていたのだが。
「ガキがいっちょ前に金の心配なんてすんじゃねえよ。大体あの浴衣を貸して貰ったのは俺なんだ、なんかあったときは俺が責任とるのが筋だろうよ」
と頑なに突っぱねられた。
ならばこっそり祖母の郁恵に渡そうかとも考えたが、あの人はあの人で受け取らなさそうだし、仮に受け取ってもらえたとしてもその事が栄介にバレれば郵送して送り返してきそうだ。
申し訳ない気もしたが、この場はとりあえず好意に甘えることになり結局クリーニング代は栄介が持つことになった。
お盆当日であるその日、結也達は栄介の家の玄関先で送り火の準備をしていた。
栄介が
「私、迎え火って初めてやりました」
「そうなの?」
結也は少し意外そうに汐里に尋ねた。結也としては毎年の恒例行事だったので、どの家もそうだと思っていた。
「うちってあんまりこういうのやらないから、一応お爺ちゃんお婆ちゃんの家で盆提灯は飾るんですけどそれも電池式ですし」
「まぁ、こういうのは家それぞれだろうよ」
途中から会話に入ってきたのは、屈んで送り火の様子を見ている栄介である。
「うちだって毎年の習慣だからなんとなくやっちゃいるが、信心深いかっていやぁそうでもねえしな」
栄介は火が消えたのを見計らって脇に置いておいたコップの水を、焙烙の上の燃え残りにかけ火を完全に消化すると、空へと伸びていた煙はすぅと空気に溶けていく様に消えていく。
「汐里さん、悪いがこれ婆さんの所に持ってって片付けてもらって来ちゃくれねぇか? 多分台所にいるはずだからよ」
「爺ちゃん、客にそんなことやらせんなよ」
結也が苦言を口にするが汐里は焙烙を受け取りながら人の良さそうな笑みを浮かべる。
「いいですよこれくらい。むしろお世話になってるんですからお手伝いくらいしないと罰が当たっちゃいますよ」
そう言って汐里は焙烙と空になったコップを手に持って家の中へ入っていく。
「良い子じゃねぇか。大切にしろよ結也」
「あのね、前にも言ったけど俺と日野さんは別にそう言う間柄じゃないよ」
「わーてるわいそんなこと。こっちだってそういうつもりで言ったわけじゃねぇ」
じゃあどう言うつもりで言ったんだよ、と問いただしたい気もしたが、突いたところで蛇しか出て来ないような気がしたので敢えて聞くようなことはしない。
「……結也、向こうでの生活は楽しいか?」
不意に投げられたその質問に、結也はその場で僅かに身構えた。またそぞろこっちに引っ越してこいだのと言われると思ったからだったが。
「そう身構えんじゃねぇ。別になんて答えたって、それを理由にこっちにこいだとか言わねえからよ」
自分の考えが見透かされ、ばつが悪くて結也の唇が拗ねたように僅かに尖る。
「言わねえからその代わりに正直に答えろ。どうだ、向こうでの生活は楽しいか?」
重ねての質問に結也は僅かに訝しんだ。
なぜわざわざそんなことを聞くのか? こっちに来いと言うつもりは無いと言うが、だとしたらなんのためにこんなことを聞くのか?
分からないが栄介の声色と表情は存外、真面目な物で適当な事を言うことを許してくれる雰囲気では無く。
結也はとりあえず栄介の質問について少し真面目に考えてみた。
正直に言えば今までの生活に楽しいも何も無かった。ただ学校へと行ったりバイトへ行ったりの繰り返しで、それ以上でもそれ以下でも無い。
不自由でこそ無かったが楽しいとか、そういうのは特になかったように思う。
ただ――。
「そうだな……最近は割と楽しいかもしれない」
なんとなくそう思えた。
少し前まで白黒で面白みの無かった日常だったが、ここ最近はそこにほんの少しだけ色が付いたようなそんな気がする。
そう思える用になった切っ掛けはなんとなく分かる。ただ何でそれでそう思えるようになったのか、その理由は考えても結也にはまだよく分からなかった。
「そうか、それならいい」
栄介は静かにそう言って、その場ではそれ以上なにも言わなかった。
「お世話になりました。とっても楽しかったです」
「それはよかった。また機会があればいつでも遊びに来なさいな」
その日の朝方、結也と汐里の二人は来たときと同じように大きな荷物を片手に玄関前で郁恵に見送られていた。
田舎の爺婆の習性なのか、野菜やらお菓子やらを色々持たされて、荷物は来たときよりも幾らか多くなっている。
「結也も、いつでもまたいらっしゃいね」
「分かってるよ、またくるから」
「婆さん、いい加減二人を離してやれ。電車に乗り遅れる!」
軒先に止めた車から栄介が顔を出す。駅まで栄介が二人を車で送っていってくれる事になっているのだ。
郁恵に別れをつげて栄介の運転する車に乗り、駅へと向かう。朝方の田舎町と言うだけ合って車は殆ど無く駅へはあっという間に着いた。
「お世話になりました。駅まで送ってまで貰っちゃって」
「いいってことよ。時々はこうして運転しとかねぇとカンも鈍るしな」
正直結也としてはそろそろ免許を返納してもいいんじゃないかと、何度か進めたことがあるのだが「田舎暮らしで車捨てられるか」と却下され続けている。
本人は医者にやめろと言われない限りは返すつもりは無いと、豪語しているらしい。
ただ実際の所、ここまでの道のりは特に危なげなく運転できていたのだから、あまり心配はいらないのかもしれない。
栄介と別れをつげて結也と汐里の二人が、駅に向かおうとしたその時である。
「結也」
名前を呼ばれて、結也が振り返ると栄介は白い無地の封筒を結也に差し出した。
「なにこれ?」
「手紙だ。陽からのな」
その言葉に結也はギョッとして栄介の顔を見た。どうして亡くなった母の手紙なんてものを栄介が持っているのか。
「少し前、お前が来るってんで婆さんが陽の部屋を掃除したときにな、机の引き出しから出てきたらしい、どうしてうちに置いてあったのかは知らねぇ。中身がなんなのか分からなかったんで一度内容を確認させてもらったが、お前宛だった」
話す栄介の言葉を正直結也は殆ど聞いていなかった。まさか今頃になって母の手紙なんて物がみつかるなんて俄には信じられず、ついつい意味も無く封筒を見つめてしまう。
「おっと中身を確認するのは電車に乗ってからにしろ」
栄介に窘められて、結也は封筒の中身に手を掛けようとしていた手を下ろした。
中身は気になるが、電車がいつ来るかという気ぜわしい状況でわざわざ読みたくはない。栄介の言うとおり電車に乗ってからゆっくりと読んだ方がいいだろう。
「なあ結也よ」
不意に掛けられた真面目な声に、結也は栄介の顔を見る。
「俺達は離れて暮らしちゃいるが血の繋がった家族だ。だからもし自分一人でどうにもならないようなこと、自分一人じゃ答えが出せないような時が来たらいつでも頼れ」
「……なんだよ急に」
突然脈絡なく言われたむずがゆくい台詞に、結也の顔が怪訝な物になるが、栄介は齢六十後半とは思えないような力強くそれでいて素朴な笑みを浮かべ。
「なに、たまにゃあ爺ちゃんらしいことでも言ってみようと思ってな。ホラいったいった、田舎の電車は一本のがしたら次が長いぞ」
「そっちが呼び止めたんでしょうが、たく」
なんとなく釈然としなかったが、正直今は手紙の中身が気になってしょうがなく、一刻も早く電車に乗ってしまいたかった。
だから結也は言われるがままに踵を返そうとして。
「向こうでも元気でな、またいつでも遊びに来い」
何気なく掛けられたその言葉に、結也は思わずもう一度振り返った。
振り返ったところで栄介は、早く行けと言わんがばかりに、シッシッと手を振っている。
結局、結也はその胸に疑問の種を残したまま、汐里が先に向かっているはずの駅へと向かっていった。
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