第30話
車窓の中を流れる景色を見ながら結也がぼんやりと考えるのは、先程の栄介のことだった。
離れて暮らすことに難色を示していた栄介が、向こうで元気でなんてまるで結也を送り出すような言葉を口にするなんて。
前に来たときはギリギリまでこっちに来ないかと説得されていたのに。
諦めたと言うことなのだろうか? それにしたってどうして突然?
疑問ではある。しかし結也はその疑問を頭の中で早々に畳んで隅に置いた。
今はそんなことよりも最優先にしなければいけないことがある。
「なんですかそれ?」
対面席の向かいに座る汐里がそう尋ねる。
「母さんからの手紙だって。さっき渡された」
その瞬間、汐里は驚いたように息を呑んだ。
それはそうだろう、故人からの手紙だなんてそんな物がこんなにいきなりポンと出てくるなんて誰も思うまい。
ただ結也には一つだけ心当たりがある。一昨年母がどこかに隠したというプレゼント、それはきっとこの手紙のことだ。
母はどうしてこんな物を残し、一体なにを書いたのかまるで検討もつかない。
封筒を握る手がうっすらと汗ばんでいるのが分かる、どうやら自分は少し緊張しているらしい。
結也は一度ゆっくりと深呼吸をして気持ちを落ち着けてから、封筒の中に入った手紙を取り出し四つ折りにされていた、A4サイズほどの手紙を開く。
そこに書かれていたのは確かに、結也のよく知る母の字だった。
結也へ
これを読んでる頃にはもう高校生かな? 突然手紙だなんて驚いたでしょう、ごめんね。
本当は直接言うべきなんだろうけど、顔を合せて話そうと思うとどうしても照れくさくて、ちゃんと話せそうもないので手紙にしました。
どうして手紙なんて書こうなんて思ったのかと言えば、それはあなたにどうしても伝えたいことがあったからです。
私はいつもあなたに人を好きになるのは素敵なことよと教えてきました。
でもあなたがそれを信じていないこと、お母さんは分かっています。
多分、その理由が私のせいだと言うことも。
あなたのお父さんはあなたが生まれてすぐに、何処かに行ってしまいました。
酷い人だって誰でも思うでしょう、私だってそう思います、許せないと思います。
だけど、だからといって私はあなたのお父さんと恋をして、好きになったことを後悔したり、辛いことだと思ったことはただの一度だってありません。
強がりなんかじゃないよ。
あなたのお父さんは最後には私を置いて何処かに行ってしまったけど、一緒に過ごした楽しかった思い出まで消えてなくなった訳じゃない。あの人は許せないけれど、その思い出まで否定するなんてこと私はしたくありません。
そして何よりも。
あの人は、私にあなたをくれました。
私があの人のことを好きになって、その御陰であなたが生まれた。その事を不幸で辛い出来事だったなんて誰にも言わせない。
誰がなんて言っても、私はあなたのお父さんを好きなったことを後悔しません。
だって私は今、あなたと一緒にいられて、こんなにも幸せだから。
だからもしあなたの前に素敵な人が現れたとき、その人を好きになることを怖がらないで下さい。
人を好きになるのは辛くて、面倒で、大変なことかもしれないけど、でもどうかその気持ちを否定しないで上げて下さい。
だって、人を好きになるってとっても素敵なことなんだもの。
あなたにこの手紙を渡せるのがいつになるのか分からないけど。どうかその時、あなたの側にそんな素敵な人がいることを祈って。 お母さんより
それがどういう感情から来た物なのかは分からない。
ただ手紙を読み終えたその瞬間。二~三粒の涙がぽろぽろと結也の瞳から零れた。
本当にただ二~三粒だけ。
手紙の最後、本文の後に短く一文だけこう書かれている。
追伸
この手紙は読んだら捨てて下さい、恥ずかしいから。
思わず小さく笑みがこぼれた。
思い切りがいいくせに、妙なところで照れ屋だった母らしい言葉。
それにしたって遺言の手紙を捨ててくれだなんて、あんまりじゃないかと思ったが、気が付く。
きっとこれを書いていたときには、この手紙が遺言になるだなんて思ってもいなかったのだ。
それを思うとなんだかまた少しだけ涙の粒が零れそうになった。
「あの、どうでしたか?」
汐里からゆっくりと声を掛けられて、結也は視線を手紙に向けたまま答えた。
「何て言うか……とっても、母さんらしい手紙だったよ」
「そうですか」
汐里はそれ以上はなにも聞かずただ一言。
「よかったですね」
優しい声でそう言った。
結也はゆっくりと手紙を元あったようにたたみ直して封筒の中に戻した。
手紙には捨てるように書かれていたが、母の遺言とは言えこればかしは聞いてやれない、何処かに大切にしまっておこうと心に誓う。
今まで人を好きになることが素敵なことだと言う母の言葉を信じられないでいた。
夜な夜な一人静かに泣いている母。
その左手から伸びる一本の赤い糸。それがまるで母を縛る鎖の様だとそんな風に思っていた。
でも母は父のことを好きになってそして、自分が生まれ一緒に過ごした日々を幸せだと思ってくれていた。
そんな母の言葉を信じないのは母の愛情を信じないのと同じだ。そんなのは嘘だ。
自分だって此の世に生まれて、母と過ごしたあの日々を不幸な出来だなんて思わない、誰にもそんなこと言わせない。
今すぐ自分が変われるとは思わない。
ただこれからは人を好きになることを素敵なことだと言っていた母の言葉を否定するのだけは止めようとそう決めた。
封筒に戻した手紙を、折れ曲がったりしないように注意をしながらバックにしまうと、結也は車窓の外の景色を眺めていた汐里へと視線を向けた。
母からの手紙を読んで、気が付いたことが実はもう一つだけある。
「ありがとう」
唐突に口にしたその言葉に「なにがです?」と汐里が怪訝な顔をするが、結也は「何でもない」とそれを流した。
自分でも不思議だったのだ。
栄介に言われたとはいえ、どうして汐里を祖父母の家へ来ないかなんて誘おうと思ったのか、その理由がようやく分かった。
――寂しかったんだな、俺は。
母が亡くなるまでは、祖父母の家にいつも母と来ていた。
栄介達の家に行くときは誰かと一緒に行くのが当たり前だった、それなのに去年は結也一人だった。
一人で準備をして、一人で新幹線に乗って一人で祖父母の家に泊まって、一人で帰った。
その事を別になんとも思っていないつもりだった。だけど本当はそんなことなかったのかもしれない。
本当はきっと、自分はそのことを寂しいと思っていたのかもしれない。
そしてそれはきっと端からみれば心配に思えてならないほどに、分かりやすかったのだろう。
だから栄輔はやたら祐介を心配して自分の所に来るように説得してきたり、今年は友達と来るように強く押してきたりしていたのかもしれない。
もちろんこの考えが正しいかどうかは分からない、けれどそう思うと色々とストンと腑に落ちるような気がするのだ。
疑問は解けた、しかしその代わりに別の疑問が一つ浮かんでくる。
どうして自分は汐里を誘ったのだろう。
寂しさを紛らわすだけなら、別に明美でもよかった筈だ。それなのに自分は真っ先に汐里に電話を掛けていた。
そこに理由はあるのかないのか。
自分は汐里に一体なにを求めているのか。
なんとなく自分の左手を見てみるが、そこにはただ自分の手があるだけだった。
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