第24話

「結也、いつまでも寝てないでそろそろ起きてきなさいな」


 扉の向こうから聞こえる郁恵の声と、部屋から遠ざかってくるお足音を聴きながら結也は目を覚ました。


 寝起きのぼんやりした頭で窓の外を見てみれば空が藍色と橙色のグラデーションを描いている。携帯で時間を確認すれば時刻はもうすぐ夜六時なる所だった。


 居間に向かってみれば、いつ起きたのかそこにはすでに汐里の姿があったが、その様子が少し妙で、結也は怪訝な顔を浮かべた。


「日野さん、顔どうかした?」


 汐里はなぜか、自身の右頬に手を不自然に添えていたのだ。


「いえ、これはその……」


 汐里の解答は歯切れが悪い。

 一体どうしたのかと結也が不思議に思っていると観念したのか汐里がそっと添えていた手どける。


 そうして露わになった頬には畳の跡だと分かる模様がうっすらと残っていた。


「ああなんだ、別に隠すようなもんでもないじゃないか」


 なんてこともない事のように言う結也だったが、汐里は恥じらうように顔を俯かせてしまう。


「うぅ。だって人のお家にお邪魔してすぐに寝るなんて失礼なことした上に、こんな」

「長旅だったんだから、疲れるのはしょうがないよ、それに畳の跡くらい別に気にするような物でも無いんじゃない」

「そうそう結也の言う通り。別に気にする事なんざねぇよ、どうせほっときゃすぐに消えんだしよ」


 結也に乗っかった栄介の言葉だったが、それを聞いて今まで傍観していた郁恵の方が目を三角にする。


「なにを言ってるんだか、そう言うもんだいじゃないよ。まったくうちの男共はデリカシーってもんがないんですから」


「ねぇ」と郁恵が同意を求めると、汐里は遠慮がちに小さく頷いていた。


 なんとなく釈然としなくて結也と栄介は互いに目を合わせるが、女性陣からデリカシーがないと言われてしまうと男性陣に反論する権利はない。

 なまじ言い返したところで、けちょんけちょんにされるのが目に見えている。


 他の家でどうなのかは知らないが、出雲家では代々口喧嘩は女性の方が圧倒的に強いと相場が決まっているのだ。


 女性陣が白だと言えばそれは白であり弱者である野郎共は、その決定に従うほかないのである。


 汐里が頬に畳跡を付けてくれた御陰、と言うと、またデリカシーがないと怒られそうだが。


 結也がふて寝する前の、何処か気まずい雰囲気はそこにはなく、結也の方もその事をわざわざ混ぜっ返す事はしない。誰も好き好んで気まずい空気の中になんていたいわけじゃない。


 その時、何か爆発したような重くて低い音が何処か遠くから響いてきた。


「今の、花火の音ですかね」


 汐里が、何気なくそう尋ねると栄介が答えた。


「ありゃあ多分、盆祭りの花火だろうよ。始まったぞって合図に、ああやって花火あげんだよ」


 盆の前日に開かれるから盆祭り。


 本当は何やら厳かな正式名称が他にあるらしいのだが、この辺の人は皆そう呼んでいる。そう生前の母と帰省した際、連れて行って貰ってそう教えられた。


「いいなぁ、お祭り。私そういうの行ったことが無いんですよ」

「そうなのかい? 珍しいな」

「えっと、隅田川の花火大会には一度両親に連れて行って貰ったことはあるですけど。ああ言うメジャー所ってとにかく人が多くて周りとか気にしてる余裕無いし、それにお父さんもお母さんもせっかちな人だから、ゆっくり出店を回るとかなんてとても出来なくって」


 その話を聞いて結也はテレビで見る人で埋め尽くされた、隅田川花火大会の様子を思い浮かべる。人混みが得意では無い結也としては想像するだけでげんなりできる様な光景だ。


 確かにあれだけごった返していると、人の波に呑まれないようにするのに必死で周りの雰囲気を楽しんでいる暇なんて無いのかもしれない。


「そりゃでけぇ所はそうかもしれないが、地元の祭りくらいあんだろ」

「昔はやってたらしいけどね」


 栄介と汐里の話題に結也が割って入る。


「なんでぇ昔はって、今はやってねぇのか?」

「子供の数が少なくなってきたのと、近所から騒音がうるさいって苦情が入ったとかで今じゃやらなくなったんだってさ」

「ああ? なんだそりゃ」


 結也がそう説明すると、それを聞いた栄介が苦虫を噛みつぶしたような顔になる。


「なぁにが騒音だ祭りは騒々しくてなんぼだろうに。それに騒がしいつったって精々が一日二日ぐらいだろ、そのくらい我慢しろってんだこらえ性のねぇ」

「俺にそんなこと言われても困るよ」


 最後にお祭りがあったのが物心つくかつかないかのころで、結也としてはあまり思い入れもない出来事だ。


 しかし栄介どうしても納得が出来ないらしく、その仏頂面には嘆かわしいとハッキリ書いてあるようである。


「ねぇそういうことなら、せっかくだし行ってきたらどうだい?」


 郁恵が不意に、そんな意見をぽーんと放り込んで来る。


「この時期に遊びに来たのも何かの縁でしょう、夕飯がてら遊びに言っておいで。ちょっと距離があるから爺婆には辛いけど、若いあんたらにならちょうど良い散歩にもなるだろうし。そうだ! せっかくだし今、汐里さんに浴衣出して上げるから」

「え! 浴衣なんて、いいですよそんな」

「遠慮するこたぁないよ。向こうの方じゃ着る機会もないだろう? わざわざ遠くからこんな片田舎まで来てくれたんだ、少しは記念になるようなことさせて頂戴な」

「でも……私、着付けとか出来なくて」

「それくらいワタシがやって上げますよ。これでも昔は祭りの度、陽に浴衣を着付けて上げたもんさね」


 言いながら郁恵は足早に居間の外へと出て行ったかと思うと、今度はぱぁん! と乾いた音が響く、栄介が自分の膝を叩いた音だ。


「うっし! そういうことなら結也の分の浴衣も用意してやんねぇとな」

「え、俺も?」

「あん? なんだ、お前こんな夜道を女の子一人で歩かせるつもりか」

「そうじゃなくてさ。別に俺まで浴衣着る必要ないだろう、面倒くさい」

「なに言ってんだ、汐里さんが浴衣着るのに連れが洋服じゃ恰好が付かねぇだろ。趣てのが大事なんだよこういうのはよ」


 そう言って栄介までもが、居間から出て行きなぜか玄関の戸を開いたかと思うと、そのまま家の外へと行ってしまった。


 取り残された結也と汐里の二人でなんとなく目を合わせる。


「なんだか、すごいことになっちゃいましたね」

「ごめん。騒がしい爺婆で」

「別に謝ることじゃないですよ。見ず知らずの私にこんなによくして貰って、ちょっと申し訳ないくらいです」

「別に気にしなくていいよ。若い女の子なんて滅多に来ないから、何かと世話を焼きたいだけだろうから。むしろ老人の道楽に付き合ってやるくらいの気持ちでいてくれれば」

「もう、あんまりお爺ちゃんお婆ちゃんのこと悪く言うものじゃないですよ」


 眉根を寄せて割と本気で窘められるようなその口調が、なんだかむずがゆいような面白くないような。


 結也は拗ねたよう口をへの字にして、顔を汐里から逸らした。


「汐里さん! ちょっと来てもらえないかしら!」


 郁恵の声が響き「はーい!」と答えて汐里も二階へと上がって行く。

 汐里を呼ぶ郁恵の声はなんだか楽しそうで、ひょっとしたら汐里を出しに、母が生きてた頃のことを思い出しているのかもしれない。


 ぼんやりと、そんなことを想像していると、どこから持ってきたのか、平たい木箱を小脇に抱えた栄介が戻ってきた。


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