第17話
「で結局、日野さんのご両親はいつ頃、帰ってこれそうなの?」
結也大爆笑の後、へそを曲げていた汐里に謝り倒してどうにか機嫌を直してもらってからそう尋ねた。
「だいたい、夜の8時くらいになると思います」
「そうなの? ずいぶん遅くないか?」
「遅番の時はいつもこれくらいですよ。だから夜ご飯は前日の残りとか冷凍食品とか」
「ふーん、そっか。そういうことなら夕飯もうちで食べてく? 食べたいものがあれば作るよ」
そう提案すると汐里がまた驚いたような顔する。
「出雲君、料理できるんですか!」
「まぁそれなりには。手の込んだものとかは無理だけど」
「それでもすごいですよ、私なんてたまにお母さんの手伝いをするくらいしかできないから羨ましいです」
手放しに褒められて悪い気はしないが、ちょっと落ち着かない。結也は照れくささから人差し指で自分の頬を描いた。
改めて何か食べたいものがないか尋ねるとお任せでという返事が返ってくる。
「じゃあ、とりあえず適当に作っちゃうから少し待ってって」
ソファから立ち上がりキッチンへと向かい、何を作ろうかと冷蔵庫をあさっていると、冷凍され袋詰めになった鮭の切り身を見つけた。
前に買い物へ行ったとき、冷凍品なら長持ちするだろうとまとめ買いしたものだ。
これをホイル焼きにして後はサラダと野菜スープでも作ろうかと、頭の中で献立を組み立てていく。
「あのう、出雲君。私にも何かお手伝いできることありますか?」
材料をあらかた用意して、さあこれから作り始めようかというとき汐里がおずおずと声を掛けてきた。
「いいよ別に、お客様なんだからさ」
そう言うが汐里はなかなか踏ん切りがつかないのか、申し訳なさそうな表情のままそのまま動けないでいた。
考えてもみれば、初めて来た人の家でただ一人何もしないで待っているというのも、それはそれで辛いことかもしれない。
「……日野さんって包丁使える人?」
尋ねると汐里から「はいっ」といいお返事が返ってきた。
スープ用の野菜カットを汐里にお願いして、結也はその横で鮭のホイル焼きの準備を進める。
下味をつけた鮭の切り身と、バターひとかけら、付け合わせのアスパラとジャガイモをまとめてアルミホイルで包んで魚焼きグリルに入れて焼けるのを待つ。
「なんだ、あんなこと言ってたわりには上手いじゃない」
「えへへ、お魚捌いたりは無理ですけど、お野菜を切るくらいだったらなんとか」
自身なさげにしていたいので若干心配だった野菜のカットだったが、汐里は意外にも包丁を器用に使って野菜を5ミリ角程度の大きさに刻んでいく。
「じゃあ、その調子でサラダの方もお願いしていい?」
「はい、任せちゃってください」
そうして二人で行った夕飯の調理は順調に進み、すべての準備が整い卓についたのは夜の六時半ごろ。
向かい合わせに座り、手を合わせる。
この家でこうして誰かと食事を食べるのはずいぶんと久しぶりだ、そう思うとなんだかすごくこそばゆい気分になった。
時々とりとめのない会話をしながら、夕食を楽しんでいた二人だったが不意に汐里が箸をおいて神妙な顔つきになる。
「出雲君、その、お聞きしたいことがあるんですけど」
「ん? なに?」
「いえ、言いたくなかったら、無理にとは言わないんですけど」
「だから、何がってば、要件を言ってもらわないと話すも何もないだろう」
結也が促すと汐里は部屋の隅にある、仏壇にそっと視線を向ける。
「出雲君のお母さんってどんな人だったんですか」
「えっ」
「ごめんなさい。やっぱりこんなこと聞くのは失礼でしたよね」
「ああいや、そうじゃないんだ。ただ、そんなこと聞かれるとは思ってなかったから」
亡くなった母親がどんな人物だったのか、そんなことを人から聞かれたことはこれが初めてで、どう話をすればいいのかすぐには浮かんでこない。
母さんはいったいどんな人だっただろうか。もう思い出の中にしかいない母の姿を結也は思い浮かべる。
「そうだな……明るくて、強い人だったよ」
「強い人、ですか?」
「うん。女手一つで子供を育てて、色々しんどいことも多かったはずなのに、俺の前でつらそうな姿なんて全然見せないそんな人だった」
結也の思い出の中にいる母はいつも笑っていた。
明るくて朗らかで大抵のことは笑って流せてしまえるような、そんな強さを持った女性だった。
「ただ年甲斐もなく色恋の話が好きでさ、芸能人のスキャンダルとかにはいつもキャーキャー言ってたし、俺が中学あっがったころには彼女は出来たのかとかことあるごとに聞いてきたりしてさ、鬱陶しくて仕方なかったよ」
「本当に、明るくて楽しい人だったですね」
汐里がふふっと楽しそうに笑う。いままでこんな事を人に話そうなんて考えもしていなかったが、こうして母の話で誰かに喜んでもらえるのは思っていたよりもうれしいものだった。
「人を好きになることは素敵なことだって、いつも俺に言ってたよ。でも、」
結也が自分の両手を何気なく見る。
「俺は人を好きなるとか恋をするとか、そういう気持ち、正直よくわからないんだよな」
結也は人の好意を赤い小指から伸びる赤い糸として文字通り見ることが出来る、しかし目の前にある自身の両手からは一本の糸も伸びてはいなかった。
例外的に自分に関わる好意は見ることが出来ないのか、単純に今まで一度も誰かを好きになったことも、誰かに好きだと思われたこともないというだけなのか。
それは結也自身にも分からなかったが、物心ついたころから人の好意を見ることは出来ても、今まで一度も自分自身の手から赤い糸が伸びているところを結也は見たことがなかった。
人の想いは見ることが出来るのに、自分自身の想いが一番、曖昧ではっきりしないというのはなんだか皮肉な話だ。
「出雲君は、その……今まで誰かに恋をしたこととか、ないんですか」
上目遣い気味に結也を窺いながら、汐里が尋ねてくるその声は心なしか何かを探っているようだった。
「ないね。まぁしたいとも思わないけど」
「どうしてですか!」
「どうしてって、めんどくさいだろう、元々人に気を遣うのとか得意じゃないし、それに……」
ろくでもない父親の事を想い、泣いている母。
左手から伸びる赤い糸は、母をどこかに縛り付けてるようにしか見えなかった。
母は明るくて強い人だった、でもそんな人だったからこそ、あの夜に見た後姿が焼き付いて忘れることが出来ない。
「とにかく、俺は別に恋をしたいとは思わない。そもそもしたいと思ってするもんでもないだろう」
「それは、そうですけど」
そうは言いつつ汐里は納得がいってないのかちょっと膨れっ面になっている。
しかし、たとえどれだけ汐里が納得いかなかろうとこればっかりはとやかく言われる筋合いはないはずだ。
その後も二人は他愛のない会話をしながら夕食を食べ、食器などの片づけが終わったころにはちょうど汐里の親が帰ってくる頃合いの時間になっていた。
夜も遅いし送っていこうかと、結也は提案したが父親がマンションの前まで車で迎えに来てくれることになったらしい。
「帰る前に、最後に一つだけお願いしてもいいですか」
父親が迎えに来る時間になり、帰り支度を済ませた汐里が結也にそう言った。
「いいけど、お願いって?」
「お線香、私にも上げさせてもらえませんか?」
そのお願いは結也には予想外のもので少し驚いたが、とはいえ断る理由もない。
「うん、そうしてあげて。多分母さんも喜ぶ」
汐里は一言お礼を言って仏壇の前に正座で座る。
マッチで火をつけるのに手間取っていたのでそこだけ結也が変わってあげて蠟燭に火をともし、線香をあげ、鈴を鳴らし手を合わせる。
汐里は一分近く手を合わせたままその場から動かず、結也の母の写真が飾られた仏壇を拝み続けた。
「何を話してたの?」
終わったタイミングを見計らって結也が聞くと、汐里は唇の前に人差し指を一本立てて「それはナイショです」と教えてくれなかった。
そのあと汐里は玄関へと向かい自分の靴を履きなおした後、見送りについてきていた結也に振り返る。
「出雲君、また明日」
「ああ、また明日」
そんな他愛もない挨拶を交わして、汐里は結也の家を後にしていった。
汐里を見送った後、結也がリビングに戻るとなんだかひどく静かになってしまったように感じた。
もういい加減なれたと思っていた自分一人しかいないリビング。その隅では今も汐里の上げた線香が白い煙を静かに燻らせていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます