彼女の宣戦布告

第15話

 夢を見ている。


 結也には自分がいるこの場所が夢の中だと言うことが自覚できた。

 だってこれは過去の出来事だ。


 具体的にいつ頃の事だったのかは憶えていないが、たしか小学校一年だったか二年だったかの頃だと思う。


 夜遅くトイレに行きたくて目が覚めた。

 電気が消えて暗くなった家の中を少し不気味に思いながら歩いて行く。


 その途中でリビングの扉から、明かりが漏れていることに気が付いた。

 止めておけと今の結也が言う、しかし過去の結也にはそんなもの聞こえるはずも無い。


 僅かに開いていた扉をそっと開いて、中をのぞき込む。

 そこには母の姿があった。一人でお酒を飲んでいたのかテーブルの上にはビールの缶が見える範囲で二つ置かれている。


 結也の位置からは母の背中しか見えず、今どんな顔をしているのかは分からない。

 ただ僅かに揺れる肩と、漏れ聞こえる嗚咽の声で泣いているのだと分かった。


 寝ているはずの結也を起こさないためだろう、泣く声は何かを必死で堪えて、それでも堪えきれず漏れ出てしまっているようなそんな声。


 母の背中はあまりにも儚げで、触れてしまうと消えてしまいそうで。過去の結也も幼いなりに何かを感じ取ってその場から動けなくなっていた。


「――――」


 その時、母が涙ながらになんて言ったのかは憶えていない、ただそれが自分の父親の名前だと言うことはなんとなく分かった。


 母の左手からは、一本の赤い糸が伸びている。


 昏い夕暮れのような寂しげな色をした未練の糸。その先にはきっと、今どこで何をしているのかもしれない父がいるのだろう。


 父は結也が生まれてすぐの頃、母とは別の女と一緒に姿を消して、それ以来行方が分からないと聞いた。


 そんな男に未練を残してやるような価値がどこにあるというのか、結也には理解が出来なかったがそれでも母は今、父の事を想って泣いている。


 人を好きになるって素敵なことよ。


 母はいつもそう言っていた。

 だけど結也には、どうしてもそうは思えなかった。


 夜な夜な一人声を押し殺して泣く母の手から伸びるその糸は、母を縛り付ける鎖か何かのように見えて。


 幼い結也には、それが忌々しくてしょうがなかった。


「……眠い」


 結也はどこかぼんやりとした頭で、あくびを噛み殺しながらそう呟いた。


「どうかしたんですか? 出雲君、すごく眠そうですけど」


 隣に座る汐里が、心配そうに声を掛けてくる。

 昼休みの渡り廊下、その窓からは清々しい程の晴天が覗いているが、今の結也の状態はそんな天気とは対極的だった。


「ごめん昨日、夢見が悪くてさあんまり寝てないんだ」


 御陰で午前の授業はまるで地獄の様だった、眠らないようにするのに必死で、正直一割も話しを聞けていたのかすら怪しい。


 それもこれも全部、あんな昔の事を夢に見てしまったのがいけないのだ。


 顔も知らない父親のことを想い涙を流す母の姿。

 まるで何かが忘れるなと訴えているように、結也は時折その光景を夢に見る。


 それでも最近はその頻度も少なくなっていたのに、ここ最近またその頻度が増えてきたように思える。


「で、なんだっけ? 家の鍵がないんだっけ?」


 今日は両親の帰りが遅いのに、家の鍵をおいてきてしまって、困ってるとか何とか。確かそんな話しを汐里はしていたはずだ。


「確かにそう言いましたけど、今はそんなことどうでもいいんです。出雲君そんな状態で午後、大丈夫なんですか」

「んー、正直しんどいかも」


 気を抜いたら眠ってしまうような今の状況では授業を聞いたところでそれは多分、子守歌にしかならないだろう。


「それなら今、お昼寝しちゃったらどうですか? あと十分くらいしかないですけど、少しでも寝れば楽になるかもですし。時間になったら、私が起こしてあげますから」

「いや、でも」

「いいんですよ、お話なんていつでも出来るんですから。私の事は気にしないで、ほら」

「……分かった、そうさせてもらうよ」


 汐里に促され、結也は体の力を完全に抜いて壁に寄りかかり、そしてゆっくりと目を閉じて意識を微睡みの中に沈めていく。


 その中で結也はさっきまで汐里が話していたことをぼんやりと思い出していた。


 親が帰ってくるまで家に入れないなんて、日野さんどうするんだろう?

 この暑い中、誰かが帰ってくるまで家の外で待っているのは辛いよな。


 親が帰ってくるまでの間、誰かの家で待たせてもらうとかできたらいいんだろうけど、日野さんそういうことお願いするの遠慮しそうだし……ああ、そうだ。


「日野さん」

「はい、なんですか?」


 半分はもう眠っているような状態の頭で、結也はたった今思いついた事を口にする。


「今日、学校終わったら俺の家に来なよ」


 ああそうだよ、誰かの家って言うのなら俺の家に来てもらえばいいじゃないか、なんだ簡単な事じゃないか。


 自分の考えた名案に満足しながら、結也は意識を完全に手放した。

 なにか汐里が慌てた様子で言っていた気がするが、その頃にはすでに結也の意識は眠りの中に溶け落ちた後だった。




 肩を優しく叩かれる振動と、呼びかける汐里の声で結也は目を覚ました。

 睡眠時間は十分あるか無いか程度しか無かったはずだが、思いの外その寝覚めは悪くない。


 ストレッチで軽くノビをすると、意識が徐々にはっきりとして、体が覚醒へ向かっている事が実感できた。


「出雲君、おはようございます」

「ああ、おはよう。ありがとう日野さん助かったよ」


 二人はその場から立ち上がり各々の教室へと戻っていくその直前、汐里が遠慮がちに結也へ声を掛けた。


「あの、出雲君。放課後はその……お世話になりますね」


 もじもじと話す汐里がいったい何のことを言っているのか一瞬分からなかったが、そういえば、家に寄るよう自分から言っていたのだと言うことを思い出す。


「ああ、大したもてなしとか出来ないだろうけど」

「いいえ、そんな、お、お構いなく」


 最後にそんな事を話して、結也は汐里と別れ自分の教室へと戻っていく。

 一歩進む度、起きた直後で曖昧模糊としていた頭が霧が晴れていく様にクリアになっていく。


 それにしても日野さん、いったい何をあんなにもじもじしていたのか。

 そんなことを考え、そしてふと気が付く。


 幾ら最近、少し親しくなったとは言え異性の同級生をいきなり自宅に招待するというのは、流石にちょっと……。


「いやいや、別にやましいことは何も無い。今回の事は単なる緊急避難だ、それ以上でもそれ以下でもない」


 一体誰に言い訳をしているのか。

 浩樹はブツブツと独り言を口にしながら、自分の教室へと戻っていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る