第7話
三時限目の終わりと、昼休みの始まりを告げるチャイムが響く。
結也は、コンビニの総菜パンを手早く片付けて自分の席を立った。
教室を出て、廊下の端に常設されている自販機でいつも呑んでいる珈琲のボタンを確認すると、もう売り切れの文字はない。
しかし結也は自販機にお金を入れることもせず、その場を立ち去ると階段を降りて渡り廊下へと向かった。
そこには誰もいない。
あれから一週間、結也は汐里の姿を見ていなかった。
元々別のクラスなのだから交流が無いのは、当たり前と言えば当たり前のことだ。それに汐里がここに来る理由も今はもう無いのだ。
そんなことは分かっているしここへ来る理由がないのは結也だって同じ筈なのに、なぜだか昼休みになるとこの場所に足がむいてしまう。
一体なんの為にこの場所に来た?
問いかけてみるが答えは返ってこない。
結也は誰もいない渡り廊下を通り第二校舎の自販機に辿り着くとそこで珈琲を買った。
プルタブを開けて一口、口に含んだその時、思わず眉間に皺が寄る。
缶の裏に書かれた原材料を確認して首をひねり、もう一口。
「……にげぇ」
そんな感想が静かに零れた。原材料はなにも変わっていないのに、その珈琲はなぜだかいつもよりも苦い気がしてならなかった。
いつもより苦い珈琲をどうにか全て流し込んで、元来た道を戻る。
途中、例の渡り廊下に差し掛かり。
「出雲君!」
一人の女生徒が結也の視界の中に現れた。
その女生徒が結也の存在に気が付くと、まるで花が咲くように笑顔を浮かべて、親しげに結也の名前を呼ぶ。
思わず目が点になる、その聞き覚えのある声に呼ばれた事に驚いて。
「日野さん?」
自信が無くて語尾が疑問系になった。
「そうですけど……ひょっとして、憶えてないですか?」
「いやいやいや! そんなことは無い。憶えてる、憶えてる!」
みるみる汐里の顔が寂しげな表情になるので、慌てて弁明を入れる。
別に彼女のことを忘れていたわけじゃ無い、それでも目の前の彼女のことを直ぐに汐里だと断言出来なかったことには訳がある。
「髪、切ったんだ」
長かった汐里の髪は、肩に届かない程度の短さにまでばっさりと切られていた。
その事を指摘すると、汐里は照れくさそうに笑いながら、切られた髪の先を軽く引っ張る。
「失恋と言ったらやっぱりコレかなって思って。だから思い切ってばっさりいってみました」
「また、ベタなことをしたなぁ」
そういいながら、結也は汐里へ改めて視線を向ける。
髪を短くした。ただそれだけのことなのに印象が大きく変わっていた。
何処か影があって野暮ったい印象だったのが、今では垢抜けてすっきりとした印象になっている。
「あの、ひょっとして似合って無いですか?」
汐里が不安そうに尋ねる。
「いいや、そっちのが可愛いと思う」
聞かれたので素直な感想を言うと、汐里は突然、斜め下方向にに俯いてしまった。
しまった何か外しただろうか? と今度は結也の方が不安になる。
「……出雲君って、以外とそういうこと平気で言えるタイプなんですね」
「え? 以外となんだって?」
後半部分が上手く聞き取れず聞き返してみるが怒ったように「何でもありませんっ!」と話をぶった切られてしまった。
結也としては益々不安になるのだが、食い下がるのもはばかられる様な気がし、それ以上は突っ込めない。
「ところで、今日は珍しいですね。こっちの方から来るなんて」
「あーいや、第二校舎の方で珈琲飲んでて。今戻るところ」
「あっ、じゃあ入れ違いになっちゃったんですね」
言われて汐里が手に例の缶珈琲を握っていることに今更気づく。
「俺に?」
「ええ、まぁ、一応」
「じゃあ、貰っとくよ」
「えっ、でも」
「二本飲んだからって死ぬわけじゃ無いよ。それに――」
結也はあえて、少しイタズラ気な笑みを浮かべて。
「甘くないのは苦手なんでしょう?」
そう言うと汐里は少し遠慮した様子で「じゃあ、どうぞ」と缶珈琲を差し出す。
結也は代金を財布から取り出し、それを汐里に渡しながら缶珈琲を受け取った。
そんなやり取りが、なんだかとても懐かしい物のように感じる。
「それで? 今日はどうしたの?」
なんて、本当は聞くまでもない。
汐里の左手を見れば、その小指からは未練の色を帯びた糸が一本、今も伸び続けているのだから。
しかし汐里の口にした回答は、結也の予想していた物とは違っていた。
「実は、ちょっと出雲君に報告したいことがあって」
「報告? ってなに」
結也がそう聞くと、汐里はさらりととんでもないことを口にした。
「実は私、新條先生に好きですって告白したんです」
「え、はぁ?」
まさかの行動に思わず驚きの声が出て「それで?」となぜか結也の方が緊張した趣で聞き返すと。
「フラれちゃいました」
と、屈託無く汐里は笑った。
「日野の気持ちは嬉しい、だけど俺には君以上に大切にしたい人がいる。だから日野の気持ちには応えられない。って」
「それはまた」
生徒、相手に随分と大人げないとも思えるような断り文句である。
ただ、生徒や教師という立場を盾に使わなかったのは、ひょっとすれば先生なりの誠意なのかもしれないとも思えた。
「悩んだけど、告白してよかったです。おかげですっきりしましたから」
その言葉に嘘はないようで、汐里の顔にはに後悔や悲しみの影はない。
無論先生への気持ちを完全に断ち切れたわけではないのだろう、それは彼女の左手から未だに伸びている赤い糸からも明らかだ。
しかしそれでも、この調子ならその糸も次第に薄れいずれ思い出に変える事が出来るだろう。
「そっか、よかったね」
結也がそう言うと汐里は「はい!」と明るく返事を返し、そして自分の顔の前で手をグッと握って。
「これで心置きなく、次の恋に向かうことが出来ます!」
そのいっそ清々しいような宣言に、思わず結也の肩がカクンと落ちる。
「次って、オイ」
「なにを言ってるんですか、花は短し恋せよ乙女です。女の子は終わった恋にいつまでもくよくよしてる暇は無いんです」
「いや、そうかもしれないけど……」
なんというか、それでいいのか? となんとなく釈然としない気持ちになる結也だったが。
それでも汐里は、悲哀なんて微塵も感じさせないような声で堂々と話す。
「先生に振られた事が、辛くないって言ったら、やっぱりそれは嘘になっちゃいますけど。でもだからと言って、恋をすることを止めたいとは思いませんよ。だって――」
彼女はニッと明るく笑って。
「人を好きになるって、素敵なことじゃ無いですか」
その瞬間、結也の胸を何かが叩いた。
その言葉は結也にとって、酷く懐かしく愛おしい母の言葉だ。
「どうかしたんですか?」
「……別に。そんな恥ずかしい台詞、よく言えるなと思って」
そう指摘してやると汐里は「えっ」と固まり、その顔が瞬間湯沸かし機のように一瞬でゆであがって黙り込んでしまった。
ちょっと悪いことしてしまったかもしれないと思い「ごめん、冗談」と詫びを入れる。
「それじゃあ俺、そろそろ戻るよ」
「じゃあね」と言って。結也が渡り廊下を後にしようとしたとき「出雲君!」と、結也を呼ぶ声がして。
「またここで、お話ししましょうね!」
掛けられたその言葉は最初聞き間違いかと思った。
ここで汐里と話をする理由になっていた先生への恋はもう終わってしまった。だからもうここで彼女と話をすることは無いのだろうとそう思っていた。だけど――
――そうか、次があるのか。
「分かった、またね」
そう結也が言うと、汐里は笑いながら手を振って渡り廊下を後にしていった。
結也も同じように手を振り替えし、彼女の背中を見送ってから踵を返す。そこでふと、さっき汐里から貰った缶珈琲を思い出した。
持ち帰るのもあれだからと、プルタブを開けて一口呷ると。
先程とは違い、いつもの結也が好きな珈琲の味がした。
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