第6話
放課後になり、下駄箱へ向かうため階段を降りていると、一階から二階の間にある踊り場で新條先生と鉢合わせた。
結也が申し訳程度に会釈をすると「おう出雲、また明日な」と気の良い返事が返ってくる。
すれ違い、そのまま一階へと降りる階段へ足を掛けようとしたところで、不意に結也はその足を止めそのまま振り返る。
「新條先生!」
「あ? どうした」
新條先生は声を掛けられると、半ばほどまで上っていた階段を降りて、踊り場に戻ってくる。
「お前がわざわざ声を掛けてくるなんて珍しいな。なんだ? 相談事か? 成績おまけしてくれって訳じゃ無いなら聞いてやるぞ」
冗談交じりに声を掛けてくる新條先生を結也は殆ど無視し、その手元を見たかと思うとそのまま、まるで何かを追うように視線を動かしていく。
声を掛けておいていきなりあらぬ方向を見だす結也に対し新條先生は別に気を悪くするわけでも無くただ不思議そうに「なにかあるのか?」と結也の見る方向へ視線を向けるが当然そこには何も無い。
「あ、いや……何でも無いんです。すみません」
「ん? そうか、ならいいが。それで、どうしたんだ一体?」
改めて聞かれて少し困る。実を言うと何か話があって声を掛けたわけじゃ無い。
結也は一瞬考えて。
「結婚おめでとうございます」
突然の祝辞に新條先生は最初意外そうな顔をするが、直ぐに満更でもなさげに表情を綻ばせ。
「おう、ありがとう。まさか、出雲から改めてそんなこと言われるとは思ってなかったな」
「はは、やっぱり柄でも無いすかね」
「んや、良いんじゃないか? 人間、偶には柄にもないことの一つや二つしたって。まぁ不意打ちだったから、ちょっと照れくさかったけど」
「じゃ、気をつけて帰れよ」と最後にそう言って新條先生は階段を上っていった。
踊り場に一人取り残されると、結也は改めてさっき見ていた方向へと視線を向ける。何も無いはずその場所にある何かを、確かにその瞳で見つめながら。
「柄でもないことの一つや、二つ……か」
だったら最後にもう一つ、柄でもないことをしてみるか。
結也は下りではなく、登りの階段に足を掛け、ゆっくりとある場所へ向かって進み始めた。
いつもとはどこか雰囲気の違う、放課後の三階渡り廊下。
彼女は一人、窓の外を眺めていたが、その目は涙こそ流していなかったがどこか虚ろで、景色を見るでも無くただぼんやり鈍い光りを放っている。
ここに来るまでは何か、励ましの言葉を掛けようと考えていた。
自分が何か言った程度で彼女の心を楽に出来るなんて考えてたわけじゃ無い、ただそれでも少しくらい何かできるんじゃないかと思っていた。だけどここに来てそれすら思い上がりだったと思い知る。
だって自分は今、怖じけずいてしまっている。
涙を流していないのに、まるで泣いているような彼女を見てなにを言えばいいのか分からなくなってしまった。
元気出して、次頑張りなよ、しょうがないって。
それらしい言葉ならいくらでも浮かぶ、でもその全てが空々しい物に思えてしょうがない。むしろその言葉が、彼女の傷をえぐってしまうような気さえした。
弱い自分が帰ろうと囁いてくる、なにもせずそっとしておけと。
ひょっとすれば、その囁きは正しいのかもしれない。
知り合って日も浅く、お互いのことを大して知っているわけでも無い。
そんな自分が中途半端に声を掛けるくらいなら、そっとしておいて上げるのが彼女の為なのかもしれない。
――だけど。
結也は動けなくなっていた、足をゆっくりと前に進めた。
一歩一歩と汐里に歩み寄ると、結也の存在に気が付いたのか、一瞬だけ彼女の瞳が結也のことを見た。
「どうしたんですか? こんな所に」
その質問に対する答えを結也は持っていない、自分ですら何をしたいのかもう分からなくなってしまっている。
だけれど、今の汐里を見なかったことにして立ち去るという選択肢は、結也の中には存在していない。
「……約束」
「え?」
「気が向いたら話し相手になるって約束しただろう。今、気が向いたから何か話したいことがあるなら聞くよ。無いならほっといてくれれば良いし、邪魔だって言うのならさっさと消える」
結也がそう言うと汐里は「そっか……」と一言そう呟いて口を閉ざすが、どこかへ行ってくれとは言わなかった。
それを滞在の許可と取り。結也は彼女から少し離れた壁に背中をあずけ、気が付かれないようにそっと汐里のことを見る。
その左手の小指からは、一本の赤い糸が伸びている。
この糸の意味を知ったのは、何時だっただろうか?
物心が付いた頃には当たり前のようにそこにあった、だから昔はこの糸が自分にしか見えない物だと思っていなかった。
どういう物なのかも理解できておらず、そのせいで何かとトラブルになったり、奇異の目で見られることだって数多くあった。
思えばそんな経験が、人と必要以上に関わろうと思わない今の自分を作ったのかもしれない。
結也にしか見えない人と人とを結ぶ赤い糸。だけどコレは運命の赤い糸なんかじゃない。
この糸は人の好意。
その人が今、想いを寄せる人へと伸びる恋心そのものだ。
糸は全て赤い色をしているが、全く同じというわけじゃ無い。その人の想いの形が色となって、糸に現れる。
汐里を一目見たとき、綺麗だと思った。
だけどそれは彼女の容姿のことを言っていたわけじゃ無い。
彼女から先生へと伸びる糸。それが見惚れるほどに綺麗だった。
混じりけも淀みも無い純粋で暖かい赤色。その色は見ているだけで、どれだけ彼女が先生のことを想っているのか伝わってくる様な鮮やかな色だった。
でも今、彼女から伸びている糸はあの時とは違う。
まるで夕焼けの様な寂しげな色。
諦めようと思いながらも、断ち切ることの出来ない未練の色。
この色を結也はよく知っている。昔いつも近くで見ていた色だから。
出来ることなら彼女からこの色の糸が伸びている所を見たくは無かった、と思ってしまうのは我が儘だろうか。
それから長い間、二人の間に会話は無かった。
遠くも近くも無い距離で互いの存在を感じながら、ただ静かにゆっくりと時間が流れていく。
そうして太陽が沈み、辺りの景色があかね色に染まり始めた頃。
「私、嘘ついてました」
不意に汐里が口を開いた。
「結ばれないことは分かってるなんて言ってたくせに、本当は何処かで期待してたんです。ひょっとしたら上手くいくんじゃないかって……ホント馬鹿みたい」
自分を切りつけるようなその言葉を聞いて尚、結也はなんて言葉を掛ければいいかが分からない。そんな自分が情け無い。
「ねぇ、出雲君」
名前を呼ばれて彼女を見る。その視線は変わらず窓の外へと向いたまま。
「泣いても……いいですか?」
そこで初めて彼女の声が湿った。
きっともう堪えるのがやっとの筈なのに、それでも彼女は誰かに許しを得ないと涙を流すことも出来ないのだ。
だとしたら、自分が言うべきことは決まっている。
「いいよ。好きなだけ泣けば」
「……ありがとう」
呟くようにそう言って、彼女は静かに鳴き始めた。
わんわんと声を上げて泣くわけでは無く、まるで何かを堪えるような嗚咽。
直ぐ近くでこうやって女の子に泣かれるのは、正直言ってキツイものがある。
ただそれでも。結也がこうして近くにいることでほんの僅かにでも、彼女の気持ちを楽に出来るのなら。
これくらいおやすいご用だ。
やがて夜のとばりが降り、最終下校のチャイムが鳴るまで汐里は泣き続けた。
その間ずっと、結也はなにも言わずただ彼女の側に居続けた。
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