第5話

「私、新條先生に告白しようと思ってるんです」


 その日、汐里が突然そんなことを言い出して、飲みかけていた珈琲が、危うく気管に入りそうになった。


「……どうしたのさ? 突然」


 動揺を隠しながらそう尋ねると、汐里の方は落ち着いた表情を浮かべて。


「そろそろ決着を付けても良いのかなって、思って」

「決着?」

「出雲君は、生徒から先生への恋ってどう思いますか?」


 その質問に結也の言葉が詰まる。

 そんな反応を予想していたのか、汐里はたいして間を置くこと無く次の言葉を続けた。


「上手くいくわけ無いって、そう思ってるんでしょう」

「それは……」

「別に気を使わなくて良いですよ。出雲君だって初めて会ったとき、止めとけって言ってたじゃ無いですか。今更です」


 そう言われてしまうと確かにその通りで、反論の余地が無い。


「それにね実を言うと私自身、この恋が上手くいくなんて思ってないんです」


 あっさりと口にされたその発言に、むしろ聞いていてた結也の方が驚いた。

 そんな結也の表情を見て汐里が何かを悟っている様なそれでいてちょっと照れているような、そんな顔をする。


「だって普通そうじゃ無いですか。常識的に考えて」

「いや、それは――」


 ――そうなのだけど。


「でもそれじゃあ尚のこと、どうして告白なんて?」


 上手くいかないと分かっているのに、自分が傷付くだけだと分かっているのに。

 どうしてそんなことをしようとするのか、結也には理解が出来ない。


「だから言ってるじゃ無いですか。決着を付けたいんですよ」


 だけれど、汐里はいっそ清々しいと思えるような調子でそう繰り返した。


「このまま告白しないで、卒業までずっと先生に片思いしているのは、きっと楽しいと思うんです。大人になってそんな時期もあったなぁって、恥ずかしがりながら思い出して、そういうのも悪くないと思うし、多分それが普通だと思うんです。でも――」


 汐里の視線が窓の外へと向けられる。

 想い人を見つめているであろうその瞳には、恋慕の情だけでは無く何かを強く覚悟したような、そんな決意の光りが灯っている。


「先生のことが好きで、好きだからこそ、曖昧にはしたくないんです。私は本気で恋をしたんだって、その証として私はこの想いを先生に伝えたい」


 不意に、先生へと向けられていた決意の灯るその瞳が結也を見た。

 その事に心臓がドキリと音を立てて跳ねる。


「なんて、やっぱり変ですかね、私」


 自嘲するような笑みを汐里が浮かべる。


 正直、彼女のその考えが変なのかどうなのか、それを判断するには結也では色々経験が足りない。


 だけれど仮に、彼女が変だったとしてもそうじゃなかったとしても、それは結也にとってはどちらでもいいことだった。


 この恋が実ることは無いだろう。

 その事を結也はきっと当人である汐里、以上に実感していた。


 しかしそれでも、結也はもう彼女の告白を止めようとは思わなかった。


 これは彼女の恋だ。


 彼女が初めた以上、終わらせるのも彼女以外あり得ない、例えそれがどんな形になったとしてもそれが覚悟の上だというのなら横から何を言っても野暮でしかない。


「そっか……それで? 告白はいつすんの?」


 そう聞いた瞬間、決意の灯っていたはずの汐里の瞳が盛大に泳いだ。


「それは、そのー……近いうちに」

「なんだよ、締まらないなぁ」

「だって、いざしようと思うと緊張するし。色々と心の準備が」

「あんなに大見得切っておいて情け無いこと言うなよ。男ならガッと行きなよ、ガッと」

「私は女の子です!」


 そんなイマイチ締まらない形で、彼女の決意表明は幕を閉じ、例のネズミのマーチが解散の時間を告げた。


「ねぇ、出雲君」


 声を掛けられて、結也が自分の教室へ向かい初めていた足を止めて振り返ると、ほんの少しだけ不安げな汐里の顔とかち合った。


「私の……この恋は本物だと思う?」


 突然の問いかけ。その時、結也の中で数日前の疑問がストンと腑に落ちた。


 先生のこと好きだと思うのは、気の迷いだって言うんですか。


 汐里はあの時、何気なくそう言っていたが、本当の所、それは彼女が一番気にしていた部分だったのだろう。


 自分が本当に先生のことが好きなのか、それともただの気の迷いなのか。自信が無くて一人悩んでいたのかもしれない。


 自分の言葉のどこに思うところがあったのか、それは今になっても分からないが。

 それでも少しだけ、彼女の悩みを軽くすることが出来たのならそれは意外と悪くない気分だった。


「そんなこと真面目に聞くなよ、恥ずかしい」


 そう言うと、汐里は少し不満そうな顔をしたがそれは想定内だ、直ぐに考えていた言葉を繋げる。


「言われなくたって、日野さんが一番よく分かってるはずだろう?」


 そう言うと彼女は僅かに微笑んで、自分のクラスへと戻っていった。

 その背中を見えなくなるまで見送ってから、結也も自分の教室へと戻っていく。


 この恋は上手くいかない。その事を分かっている。それでもどうか、彼女のこの思いが悔いの無いものになりますように、そう密かに願って。


 それから数日後。その日は、前触れも無くやって来た。




 その日は体育館で朝礼があった。

 生徒達はクラス事に整列させられ、校長が壇上で最近熱くなってきて熱中症がどうの、衣替えがどうのと、毎年よくもまぁ飽きないなと思えるような内容の話をしている。


 校長の言葉を右から左に聞き流しながら、備え付けの時計をチラリと確認し、話もそろそろ終わりかなと思ったその時。


「えー最後に。実は今日は皆さんに大変おめでたい、えーご報告が、えーあります」


「では、先生どうぞ」と校長に促され壇上に上がったのは新條先生だった。

 どことなく照れくさそうに見える新條先生の様子に周りの生徒達がなんだ、なんだと俄に騒ぎ出す。


 そんな中で結也ただ一人だけが、血の気の引くような思いだった。掌から汗が滲み、不吉な予感が胸を締め付ける。


「えー皆さん。こちらにいます新條先生ですが」


 待て、もう少しだけでいい、待ってくれ。

 心の中で結也は叫ぶがそんなもの、当然聞こえるわけもなく校長の言葉は止まらない。


「えーこの度」


 そうしてついにその時が来る。


「なんとご結婚されることになりました!」


「全員拍手!」と校長が呷ると新條先生の人柄から来る人徳なのか盛大な拍手が、体育館中に響き渡った。


 校長からマイクを受け取り、新條先生がスピーチをしようとするが、拍手と甲高い指笛に混じって飛んでくる生徒からの冷やかしに一々リアクションを取っているせいで、中々スピーチが始まらない。


 誰もがそうしておめでたい出来事に湧いている中、結也一人だけ壇上とは全く別の方向へ視線を向けていた。


 結也の視線の先には二年四組の列――汐里のいるクラスの列がそこにあるはずだ。


 結也のいる位置から汐里の姿を確認することは出来なかったし、なまじ見えたとしてもこの距離ではその表情を見ることは出来なかっただろう。

 それでも、結也はそちらの方角を見ずにいられなかった。


 こうなることは分かっていた。

 学校の先生に恋をしている。ただそれだけなら結也もあの時、たいして気に留めることはしなかっただろう。


 滅多にあることでは無いが先生と元教え子が結婚したなんて話、絶対にあり得ないと言うほどのものでも無い。


 随分と無謀なことをと呆れはしただろうが、慮ってそれを止めるなんてことはしなかったはずだ。


 それなのにあの時、思わず止めておけなんて行ってしまったのは。先生だとか生徒だとか関係なく彼女の恋が叶わないことを、結也は分かっていたからだ。


 新條先生に恋人がいて、そしてその相手とお互いに強く想い合っていることを結也は知っていたのだ。


 だが汐里は例え実ることのない恋だとしても、それでもその人へ想いを伝えたいと覚悟を決めていた。


 だからもうなにも言うまいと思っていた。

 どんな結果になったとしてもそれほどの覚悟を持って挑むなら、きっと後悔するような結果にはならないと思っていた。


 しかし現実はそれを待ってくれない。

 まるでその覚悟をあざ笑うように先回りして、お前の想いは実ることは無いのだと一方的に最後通牒を叩きつけてきた。


 日野さんは大丈夫だろうか。

 余計なお世話以外の何物でも無いことは自覚していたが、そう思わずにはいられない。


 新條先生の半分惚気のような結婚報告を最後に、朝礼は幕を閉じた。

 昼休み、結也はいつものように渡り廊下に向かったが。


 そこに汐里の姿は無かった。

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