第2話

 少女のいる渡り廊下に戻ると、結也はちらりと自分の手に持ったある物へ視線を向ける。小さく息を吐き、ゆっくりと少女に近寄って声を掛ける。


「あの」


 少女が振り向いた所で、結也は手に持ったある物をすかさず彼女に差し出した。それは結也がいつも飲んでる缶珈琲と、同じ銘柄のカフェオレだ。


「昨日はゴメン、悪気は無かった。別に誰かに言いふらしたりするつもりはないから」


 少女は呆気に取られたような表情で差し出されたカフェオレと、結也の顔へ交互に視線を向ける。


 そんな様子を見て、結也はふと我に返った。

 声を掛けるにしても手ぶらじゃ勢いが付かないと思い買ってきたが、よくよく考えれば知りあいでもない男子からいきなり飲み物を渡されるというのは、相当気持ち悪いことなんじゃないだろうか。


 掌から嫌な感じの汗が滲む。


「あー……ゴメン」


 いたたまれなくなって差し出していたカフェオレを引っ込めようとしたその時、少女が両手で包むようにその手を取った。


 不意打ちのようなその温もりに、驚いて思わず小さく結也の肩が跳ね、少女の方も「ごめんなさい!」と慌ててその手を放した。


「その、つい勢いで」


 少女は頬を僅かに赤くしながら、今度は慎重にカフェオレの缶だけをその手に取る。


「ありがとう、いただきますね」


 少し照れくさそうにそう言って少女はプルタブを開けると、ゆっくりとカフェオレを口元へ持って行き、一口。


「……あ、美味しい」


 ほっと息を吐くようなその感想に、結也は満更でも無い気分になる。

 それに謝罪の証として持ってきた物を、飲んでくれたということはつまり和解の証だと思っていいのだろうか?


 イマイチ判断が付かなかったが、わざわざ聞くようなことでも無い。この際そういうことにさせてもらおう。


「それじゃあ、俺はこれで」


 そう言って結也はその場を後にしようとするが、それに「待って」の声が掛かる。


「あの……よかったら少し、お話しませんか?」


 少し逡巡する素振りからそう言うと彼女は壁に寄りかかるようにして、その場に座り込んだ。


 突然の提案に、困惑しなかったと言えば嘘になる。


 だが結也としては多少なりとも彼女に対して負い目を感じている身だけに、どういう意図なのかは分からないにせよ、彼女からの提案を無下にするのは忍びない。


「それじゃあ」


 結也は彼女と一メートルくらい離れた場所の壁に立ったまま寄りかかって、自分用に買った缶珈琲を開けた。

 カコッという渇いた音が辺りに響いて、甘みのないキリッとした苦みと香りが、口の中に広がる。


 お話ししませんか? と彼女は言ったが直ぐに何か話題を振ってくるようなことはしてこなかった。


 計っていたわけでは無いが、多分一分から二分くらいの間、彼女はなにも言わず、ただ渡されたカフェオレをちびちびと呑んでいたのではないだろうか。


 お話しませんかと言われたが、ほぼ初対面の二人に、共通の話題などあるわけも無し。なのに一体なにを話せというのか。

 そんなことをうんうん考えていると、探るような声で。


「えっと、とりあえずお互い自己紹介でもしませんか?」


 さすがに何か話さなきゃと思ったのか、少し緊張気味にそう言いながら少女は自分の胸に手を当てて。


「私、二年四組の日野汐里って言います」


 あなたは? と汐里と名乗った彼女の瞳に無言で聞き返される。


「出雲結也、二年二組」

「いずもって、もしかして字は出雲大社の出雲ですか?」

「そう、それ」


 形式的な物では無い個々人の自己紹介というのは、やってみるとなんだか座りが悪くて、返事がぶっきらぼうなものになる。


「縁起が良い名字なんですね。有名な神社と字が同じだなんて、何か御利益とかありそうで」

「御利益ねぇ」


 出雲大社と言えば確か縁結びの神様だった筈だ。

 ひょっとすればこんな物を見ることが出来るのは、その御利益ということなのだろうか? ふとそんなことを考えてみる。


 しかしだとすればありがた迷惑も良いところだ。どうせくれるなら、もっと実用性のある物をくれれば良いものを。


 そんな別に信じてもいない神様に、内心で文句を言ったところで会話が途切れた。

 さすがにお話もこれで終わりかな? と結也が寄りかかっていた壁から背中を離そうとしたとき。


「どうして、分かったんですか?」


 不意に彼女が口にしたひどく端的な質問。結也は何のことを聞かれているのかすぐに分かったが答えられなかった。どう答えればいいのかが分からなかったからだ。


 結也はチラリと少女を厳密に言えばその左手に視線を向ける。


 ――コレのことを正直に話しても、信用はしてもらえないだろうしなぁ。


 結也がなんて言った物かと頭の中で考えていると、少女はその逡巡を質問の意図が分からなかったからだと取ったらしく。


「私が……新條先生のことを好きだって言うこと」


 頬を朱色に染めて、恥ずかしそうに少女はそう言い、それを聞いて結也は思わず視線を窓の向こうへと向けていた。


 渡り廊下の窓からはちょうど一階にある職員室を覗くことが出来る。

 件の新條先生の席は窓際で授業で使うプリントでも作成しているのか、ノートパソコンに向かって何やら打ち込んでいる姿をこの場所から見ることが出来た。


 新條真。担当科目は世界史で結也達の担任でもある。


 年齢は二十代後半だったか、三十代前半だったかの比較的若い先生で、人当たりの良い剽軽な性格は生徒からの評判も良い。

 授業中ペンをすっぽ抜けさせた結也を冗談交じりに注意したあの先生である。


 ただ彼女の口にした【好き】は、そう言った親しみやすさから来る【好き】と別の物であることを結也は知っている。


 知っているからこそ、何でその事が分かったのか、という質問に対して益々なんて答えればいいか分からなくなってしまったが、結局――。


「まぁ、なんとなく……かな?」


 そんな具体性、説得力、共にゼロの返事しか出来なかった。


 流石に苦しいかと思ったが少女は「そっか」と一言言って、それ以上何も言ってくることは無かった。


 多分、納得してはいないのだろうなと言うことは察せられたが、こっちとしてもこれ以上追求されても困るだけなので余計なことは言わない。


「さっきも言ったけど別に、言いふらしたりするつもりは無いから。そこは安心してもらって良い」


 そう言うと、少女は可笑しそうに小さく笑う。


「分かってます。それは私もさっき聞きましたから」


 クスクス笑うその様子には、不安の色はない様に見えた。


「珈琲お好きなんですか?」


 結也が手に持った缶コーヒーを指さしながら汐里からそんな質問を投げられた。

 心なしか、さっきよりも声がくだけた感じになったようなきがした。


「まぁ、割と。ただ珈琲がと言うより、この銘柄が好きで」

「確かに、コレ美味しいですもんね。あんまりコンビニとかでは見かけないけど」

「生産数が少ないのかも。俺もここの自販機以外ではあんまり見ないし」

「へぇ、そうなんですね。味は? ブラック派なんですか」

「甘いのはあんまり好きじゃ無い」

「そうなんですか。あっ、ちなみに私は甘い物好きですよ」

「ふーん」


 そんな本当に他愛もない話をしていたら、不意にどこからか某有名ネズミキャラのマーチが聞こえてきた。

 何かと思えば発信元は汐里の携帯のようで、どうやらアラームか何かを掛けていたらしく、携帯の画面を見ながら「そろそろ戻らないと」と呟いている。


「そんじゃあ、コレで解散ってことで」


 あずけていた背を今度こそ壁から離し、結也は踵を返す。


 後ろから「それじゃあ私も」と汐里が立ち上がる気配がする。四組の教室は確か第二校舎側だったから結也とは反対方向の筈だ。


「出雲君、じゃあね」


 背中から声をかけられて、結也は振り返らず手を振って答えた。


 別れの挨拶を掛けられたのは結也にとっては不意打ちで、つい気恥ずかしさから出た所作だったが、ちょっとキザったらしく思われたかもとやってから後悔する。


 だけどまぁ、これでもう彼女と関わることは無いだろうし構わないか。


 その時はそう思っていた。

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