無謀にも先生に恋をしている女子に声を掛けたらなぜかその子の恋を応援することになった

川平 直

その視線の先にあるものは

第1話

 人を好きになるって素敵なことよ。

 母は昔よくそう言っていたことを今でも覚えている。




 耳障りな音を頼りに手を伸ばし、目覚まし時計代わりにセットしていた携帯のアラームを止める。


 昨日はバイトから帰ってそのまま眠ってしまったので、着替えがてらシャワーを浴び身だしなみを整えてから朝食の準備を始める。


 トースターで焼いたパンと粉末をお湯で溶かす定番のポタージュスープに、ドリップ式のインスタント珈琲。


 朝の定番メニューとなっているそれらを食べ終えた頃には時刻は午前八時ちょうど、そろそろ家を出なければいけない時間だ。


 食べ終えた食器をシンクの水につけ、ワイシャツの上から学ランを羽織り、学校指定のローファーを履き玄関の扉に手を開ける。


「行ってきます」


 返事はない。

 そんなことは分かりきっていることで、今更何かを思うことは無い。ただなんとなくの習慣で続けているだけだ。


 静まりかえった沈黙を背に家を出る。

 いい加減、見慣れた景色の中をしばらく歩いていると、自分と同じ学校の制服を着た男女の二人組を見つけた。


 並んで何やら楽しげに会話している様子を見るに、どうやらカップルらしい。その二人を追い抜きざまにチラリと見て。


 ……この二人はもう、別れるな。


 そんな感想を胸の内で呟きながら。何事も無かったように出雲結也いずもゆうやは高校までの道のりを一人、歩いて行くのだった。 



 

 三時限目の終わりと、昼休みの始まりを告げるチャイムが響くなか。結也はコンビニで買った総菜パンを手早く片付けると自分の席を立った。


 真っ直ぐに教室の出入り口へ向かうが、その途中でクラスメイトの誰かに呼び止められたりすることは無い。


 教室を出て、廊下の一番端の方にポツンと一台だけ常設されている自販機に向かう。


 百円玉を入れていつも呑んでいる珈琲のボタンを押そうとするが、そこには売り切れという赤い文字が浮いていた。


 しょうがない、隣の校舎に行こうか。

 そう思って結也は階段へ向かった。


 結也の通う学校は第一校舎と第二校舎のふたつあるが、不便なことに四階建ての癖に三階と一階にしか渡り廊下がない。


 第一校舎の四階に教室がある結也は第二校舎に用があるときは、わざわざ階段を一つ降りなければいけない。


 そしてお目当ての珈琲を販売しているのは第一校舎と第二校舎、それぞれの四階にある自販機だけ。


 本当に心の底から、面倒臭い。

 だが結也の中にあの珈琲を呑まないという選択肢は存在しなかった。


 生産数が少ないのか他の場所では中々販売している所を見ないその珈琲を食後に呑むのは日課であり、執着の薄い結也の唯一と言ってもいい拘りなのだ。


 階段を降りて三階へと辿り着く。

 放送室やら視聴覚室やら、用が無いとわざわざ使わない様な教室が固まってるせいか、ここはこの時間いつも人気がない。


 微かに学生達の喧噪がどこからか聞こえてくるが、それがかえってこの場所のうら寂しさをより一層、助長しているようにさえ感じる。


 そんな人気のない廊下を歩き、結也が第二校舎へと繋がる渡り廊下に差し掛かった時である。


 一人の女生徒が結也の視界の中に現れた。


 不覚にも。

 ……綺麗だな。と、そう思った。


 背はすらりと高く細身。長い濡鴉色の髪が開け放たれた窓から注ぐ淡い陽光に照らされながら、吹き込むそよ風に撫でられ僅かに揺れている。


 ただどことなく野暮ったい。

 長く濃い色をした髪のせいか。その立ち姿はまるで古い日本人形の様な雰囲気が漂っている様に見える。


 でもそれだけだ。

 それ以上、何か思うわけでも無く、結也は窓の外を見下ろす彼女の後ろを素通りして、そのまま第二校舎へと向かった。


 四階の自販機にお目当ての珈琲の在庫を確認し、硬貨を入れてボタンを押す。

 ガコンという音と共に吐き出された、黒色の缶を手にとると、すぐさまプルタブを開けて口元へ持っていった。


 薫り高い苦みが口の中に広がって、頭の中がすっきりと冴えていく。とても缶コーヒーとは思えない上等な味だ。


 五分ほど掛けてゆっくりと珈琲を味わうと、結也は自分のクラスへ帰るため渡り廊下に戻る、すると驚いたことに例の少女がまだ窓の外を眺めている。


 場所も変えずに姿勢も変えず、彼女は何かを一心に見つめ続けている様だった。


 一体なにをそこまで真剣に見つめているのだろうか?


 結也は女子から少し離れた窓から、さり気なく外を覗き、彼女が一体何を見てるのかを確認すると、その疑問はすぐに解消した。彼女の視線は、ただ一人の人物へ注がれているのだと結也には分かった。


 その視線の先にいた人物に結也の顔が思わず苦る。


「……止めときなよ」


 零れるように口にした言葉。

 言った後にしまったと思い、結也が少女の方を見てみれば案の上を驚いたような表情でこっちを見ている。


 もしこの場に他に誰かいれば、彼女の聞き間違いと言うことにして誤魔化すことも出来ただろう。

 しかし生憎この場には結也とその少女の二人しかいない。


 それでも結也は少女に何か言われる前にと、すぐさま逃げるように歩き出す。


「あのっ」


 背中に掛けられた引き留めるその声を聞こえないふりでやり過ごし、結也はその場を黙って立ち去った。




 どうしてあんなこと、言っちまったかな。


 昼休みを終えてからの四時限目、教科は世界史。

 結也は黒板に書かれたことを解説する、先生の話を適当に聴きながらぼんやりと考えていた。


 なんの前触れも無く行きずりの相手に突然あんなこと言われて、あの子がさぞ驚いたであろうことは想像に難くない。


 あの時の言葉は殆ど無意識だった。

 このままだときっとこの子は傷付く事になるんだろうな。そう思ったら、気が付けば口から言葉が零れていた。余計なお世話以外の何物でも無いというの分かっていたのに――。


 そんなことを考えていたら、手持ち無沙汰で行っていたペン回しを仕損じて、シャーペンがあらぬ方向へとすっ飛んでいった。


 間の悪いことにクラスがちょうど静まりかえっていたタイミングで、ペンが床に叩きつけられた音は思いの外大きく響き、自然と結也へとクラス中の視線が集まる。


「……すいません」


 軽い会釈と謝罪をしながら、落としたペンを拾い上げる。


「びっくりしたぁ、気を付けてくれよ。驚いた拍子に心臓止まって、先生が死んだらどうしてくれる、あと十六年ローンが残っている家で、三匹の猫ちゃんが俺の帰りを待っていると言うのに」


 と冗談めかした注意が飛んできて、教室がドッと笑いで湧く。


「誰も聞いてねー」「先生猫ちゃん飼ってるんですか?」「てか先生、家持ってんの!」などと授業内容そっちのけでクラスが盛り上がっている。

 この先生はこう言った剽軽で親しみやすい所が評判の先生なのだ。


 しかしそんな中で結也はただ一人、気づかれないように静かに先生へ恨めしそうな視線を向けて。


 あんたのせいでもあるんだぞ、あんたの。


 八つ当たりからくる怨嗟を、剽軽に笑う先生へ理不尽にも向けるのだった。

 



 翌日の昼休み。結也はいつものように総菜パンを手早く片付けてから、廊下にある自動販売機へと向かった。


 愛飲している珈琲のボタンを確認すると、まだ補充されていないのか、昨日と同じようにそこには売り切れの赤い文字。

 こうなるとまた、隣の第二校舎へ向かわなければならないのだが。


 嫌な予感がする。しかし結也に食後の珈琲を呑まないと言う選択肢は無い。


 階段を降りて三階、そして渡り廊下へと向かうと思ったとおりそこには昨日と変わらず彼女の姿があった。


 濡鴉色の髪の少女が、昨日と同じ場所で外の景色を眺めている。正確に言えばその向こうにいる、ある人物を見つめているのだと言うことを結也は知っている。


 一瞬、一階の渡り廊下を使おうかという考えが頭を過ぎる。

 かなり遠回りにはなるが、それでも第二校舎へ行くことは出来るのでムリしてここを通る必要は無い。


 だがその案を結也は自分で却下した。

 逃げるように遠回りするのは、なんだか負けのような気がした。なにに対して負けるのかは知らないが、とにかくそんな気がしたのだ。


 結也は意を決して渡り廊下へと踏み込む。

 一歩、二歩と第二校舎へと向かって歩みを進める途中、少女の方も結也の存在に気づいたのか一瞬視線を向けてきたが、それだけだった。


 少女は心なしか気まずそうに視線を逸らし、その後ろをなに事も無く通り抜け、結也は第二校舎へと辿り着く。


 後ろを振り返ってみれば、少女はまた窓の外を見つめていた。


 ……昨日のこと、一言くらい謝るべきだろうか?


 きっとあのことはあの娘にとって、気安く触れて欲しくなかった部分だったろう。

 出来ることならば誰にも知られず、ひっそりと自分の胸の内に秘めていたかったにちがいない。


 悪気は無かったとはいえ、それに自分は無遠慮に踏み込んでしまった。

 怒っているのならいい。でももし、自分のあの一言で彼女が恐怖や不安を抱いているのなら――。


「いやいやいや」


 頭に浮かんだそんな考えを、結也は苛立たしげに頭を掻いて掻き消した。

 謝ったからなんだ? そもそも向こうが気にしているかも分からないのに、自意識過剰もいいところだ。


 確証も無いのに中途半端に触れるくらいならいっその事、なにもせず無かったことにするのが互いのためだろう。


 自分にそう言い聞かせながら結也は四階の自販機へと向かう。

 いつもの珈琲を買い、いつものようにその場で缶を開けようとプルタブに指を掛けるが、そこで結也の動きがぴたりと止まった。


「…………」


 しばらくそのまま缶珈琲を見つめるが、結局プルタブを開けることはせず、結也は財布を取り出すともう一度、自動販売機に向き直った。


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