第4部分

 則ち、かの森林を抜けて一段落したという状況に於いても、周囲への警戒の為に人間の中では最高峰に位置すると自負しているその五感を動員していた結果、タチバナは既にこの付近に居る何らかの、恐らくは自分達の目標と何かしらの関係があるであろう存在に気付いており、それこそがその「伝えるべきかを悩む事柄」なのであった。


 いや、一見すればその情報の何処に悩むべき所があるという話ではあるのだが、確かにその情報を伝えさえすれば、恐らくは主の意識を一気に冒険へと引き戻す事が出来る、つまり状況を先に進める事が出来るであろうし、それを伝えた事でアイシスを喜ばせこそはすれど、不快にさせる様な事も無いだろうとはタチバナも考えているのだが、その場合にはアイシスがその存在を自ら発見するという体験と、それに付随する感動を奪う事になるという事を、その幸福を第一に考えているタチバナは殊更に気にしているのであった。


 則ち、森林を抜けて暫しアイシスが平穏に浸っていた事に関しては良しとしていたものの、それが長くなり先に進む意思が欠けてしまっている様に感じたタチバナは、その状況を改善する為に有効な情報を既に入手していたが、その有効性と主への配慮の何れを優先すべきかで悩んだ結果、こうして主の言葉への返答が遅れてしまっている訳だが、そもそもの思考の速度が常人のそれとは一線を画すものである為に、それでも未だ大した、少なくともアイシスがそれを気にする程の時間は経過していなかった。


「……いえ、当然ながら私にも不得手な事はございますので、その様に仰って頂けると大変有難く……いえ、嬉しくはあるのですが、とはいえその分担した役割に固執する事はせず、何か不都合が起きた時等には遠慮無く仰って下さいませ。必ずしもそれを代わる事が出来るとは申し上げられませんが、私なりにご協力はさせて頂きますので」


 尤も、それはあくまでアイシスにとってはそうだというだけであり、その思考の速度が基準となっている当人としてはその限りではなかった為、これ以上返答を待たせる事は流石によろしくないと判断したタチバナは、取り急ぎそのアイシスの言葉への答えを返す事にする。


 とはいえ、無論それはいい加減に考えたものという訳ではなく、既にその事を伝えるかという選択以外の思考は済んでいたというだけの話なのだが、その選択を先延ばしにした事は確かである為、タチバナはその自身の行動に若干の歯痒さを覚えている事もまた確かだった。


 尤も、別にその選択はそれ程急ぐ必要があるものではなく、どの道このアイシスとの問答が終わるまでは、少なくとも自分からは出発などは出来ない為、どう厳しく見てもそれまではその選択への猶予があるという事なのだが、即断即決……では思慮不足に陥る可能性もある為にその言葉は好まないものの、それを捩った「速断速決」を信条としているタチバナにとっては、それを理解していても尚その事を一切気にせずにいる事は難しかった。


「……貴方もね。いや、何も出来ない……とまでは言わずとも、私なんかが貴方の代わりを務められるとはとても思わないんだけど、まあ体調とか色々あるからね? 立場的に言い出し辛い事もあるかもしれないけれど、もし何か頼りたくなった時には遠慮無く言って頂戴ね」


 一方、そのタチバナの返答を聞いたアイシスも、タチバナがそれを口にするまでに要したのと同等程度の間を置いてから、漸くそれにそう答えを返すが、その一言目を口にした後の妙に慌てた様な早口な口調からも察せられる様に、その間はタチバナのそれとは異なり十分な思考の為に空いたものではなかった。


 というのも、その間に件の地這龍の出現と森林を抜けたという大事件があり、ついでにその先の景色への没入と束の間の、と言っても未だ一応は続いている平穏があった為か、既にその兆候が、もといその変化がはっきりと表れた言動をこれまでに見聞きして来たにもかかわらず、その言葉から以前のタチバナからの変化が殊更に感じられたアイシスは、その事への感動に浸る事にその空いた間の大部分を費やしていたのである。


 なお、その変化にそれ程に感動したとは言っても、別に以前と比べて優しくなったなどと思ったわけではなく、その中で「嬉しい」と自身の感情を表現した事や、互いの役割への柔軟性が向上したというか、それ以前の言葉から続いての事ではあるが、全てをタチバナ自身で担おうとするのではなく、仮にも主である自身にもある程度は頼ろうとしてくれているという事が、それこそアイシスには非常に「嬉しい」と思えたのであった。


 そして、その感動に浸り過ぎていた結果、思慮不足に陥ったアイシスはそのタチバナの言葉に対して最初に思った事をそのまま口にしてしまった訳だが、その姿勢自体を誤りだと思った訳ではないものの、彼我の能力差を考えればその言葉は非常に烏滸がましいものであると思った為に、慌ててそれを取り繕った結果がその後の妙な早口な口調に表れてしまったのであった。

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