第421部分

 先述の通り、既に当の本人もその魔法の効果が歩行にしか及ばぬと理解しており、更にその言葉通り、その脚部には未だ先の全力疾走の疲労が残っているにもかかわらず、アイシスはその様な一切を気にする素振りも見せる事は無かった。まるでかつて目にしたアメリカンフットボールを描いた作品の主人公が、それ用のボールをそうしていた様に、荷物を脇に抱えたまま先程と同様に全力でその光景の元へと走って行く。


 そうして全力で疾走するアイシスの視線の先の光景、則ちアイシスが疲労等を忘れて思わず駆け出してしまうに値する光景とは、暗闇に差し込んだ一筋の光の様なものだった。それは一行がこの森林に足を踏み入れた時がそうであった様に、不自然に密集した樹々がまるで壁の様に陽光を遮っている中、自分達の進路の延長線上からのみそれが差している光景、則ちこの広大な森林の出口を意味するものであった。


 それを既に理解していたが故に、そのアイシスの行動は本人の疲労等の理由により本来推奨されるものではなかったにもかかわらず、タチバナはそれを諫める様な事はしなかった。ただ自身もその後に続いて駆け出すと、主の邪魔にならぬ様にと、例によってその右斜め後方を維持しながらその後を付いて行く。


 その速度はアイシスにとっては概ね最高速度と言っていいものであったが、それでもタチバナにとっては朝飯前のものであった為、その表情はアイシスのそれとは対照的な涼しいものとなっていた。しかし、それは普段の殆ど無表情なそれとは異なり、そこにはタチバナ特有のあまりにも微かな、だが当人比では生涯でも一、二を争う程に顕著な笑みが浮かんでいた。


 ともあれ、そうして高速で走っていた一行が、その目指していた光景、則ち現在自分達が身を置いている森林の出口の付近に辿り着くまでにはそう長い時間は掛からなかったが、あと少しでそこを突破出来るといった所でアイシスは急激にその足を緩めると、最後にはその目前でその足を完全に止めてしまう。


 流石に疲労が限界なのだろうか。瞬時にその理由をその様に考えたタチバナもそれに倣うが、そのまた直後にはその考えを思い直していた。確かにアイシスは息を切らしてはいるものの、先程の様に荷物を下ろして膝に手を突く様な事はしていない事から、その行動には他に何か理由がある事は明白であり、それを証明する様にアイシスはそこで真後ろへと向き直る。


 タチバナにはその行動の真意は分からなかったが、そのまま何をするでもなく風景を眺めている主の表情と、これまでに目にして来たアイシスの行動とその要因から、それが何らかの感情に基づく行動であるという事は、何となく推し量る事が出来ていた。


 そのタチバナの推量は概ね正しく、そうして広大な森林の風景を眺めながらアイシスが行っていたのは、その場所で自身が経験した様々な出来事の振り返りであった。そう長い期間をそこで過ごしたという訳ではなく、決してその出来事の全てが自身にとって良いものであった訳でもなかったが、そのたった数日という時間に経験した出来事は、かつて病室で過ごした何年もの期間のそれよりも余程その心にしっかりと刻まれていた。


「……それじゃあ、そろそろ行きましょうか。無駄に待たせて悪かったわね」


 そうして、暫しの間ただ立ち止まっていたアイシスであったが、やがてタチバナの方へと向き直りながらそう言うと、何となく気恥ずかしさを感じてそのまま出口の方にまで振り返る。それは自身の感傷的な行いが、歳相応のそれではないかもしれないと思った為の羞恥であったが、無論タチバナの方はその様な事を気にしてはいなかった。


「……いえ、かしこまりました。それでは参りましょう」


 そしてそれはその謝罪の内容についても同様であり、タチバナは主に倣って出口の方へと向き直ると、普段の淡々としたそれとは少しだけ異なる、可能な限り穏やかな口調でそう答える。尤も、やはりその差は他者には非常に認識の難しいものであったが、その時のアイシスにはそれが自然と伝わっており、この場を離れる事に何となく寂しげな表情を浮かべていたその顔は、さぞ嬉しそうな笑顔へと変化していた。


 ともあれ、そうして再び歩き出した一行の瞳には、視力の差により各々でその度合いは異なるものの、既にその出口の向こうの風景がある程度は映し出されていたが、アイシスはそれに意識を向けない様にと、意図的にその視線を下げて歩いていた。


 それは一見すると慎重を期す為の行動にも見えたが、つい先程までには散々その逆と言っても良い行動を取って来た上に、そもそもこの経路上には障害物が無い事は既に互いにとっての共通の認識となっていた為に、そこには別の意図がある事はタチバナの目にも既に明白であった。


 そのアイシスの意図、則ちその外部の風景については森林を完全に抜けてからゆっくりと感慨に浸りたいという考えにより、件の魔法の効果が続いている割には、その歩行はこれまでよりも随分とゆっくりとしたものとなっていたが、それでもその短い距離を踏破する事にはそう時間が掛かる事は無く、やがて一行は入って来た時と同じ様な樹の枝のアーチを潜り抜け、遂にその森林の外部へと一歩を踏み出す。


 そしてその瞬間、同時に顔を上げたアイシスの目に入って来たのは、ただそれだけでその心情をもそう変化させてしまう様な、あまりにも穏やかな風景であった。青々と茂った草が辺り一面に広がる中、それを彩る様に色とりどりの花が疎らに咲き誇っており、そこに更なるアクセントを加える様に大小様々な木々が繁茂していた。


 また、これまでは薄暗い森林の中に居た為に気付かなかったが、眼前に広がる空には既に雲はあまり掛かっておらず、青空の中傾き始めた太陽がその風景の全てを優しく照らしていた。つい先程までその身を置いていた森林のそれとは異なり、それらの風景は決して幻想的なものという訳ではなかったが、逆にその両者の差異故にか、アイシスにはそれが殊更に輝いて見えているのであった。

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