第82部分

「致しましょう」


 そう言いながら、タチバナが左太腿に仕込んでいたナイフを引き抜きざまに黒星の顔面へ向けて投擲する。あまりに突然の事に、後ろから傍観しているアイシスでさえ完全に不意を突かれ、声を発する事すら出来なかった。タチバナの戦術論を知るアイシスでさえそうであるのだから、投げられた当の黒星も完全に不意を突かれる形となった。


 かの勇者ライトを含む、この世の殆ど全ての人間や魔族が相手であってもそれで決着していたであろう。それ程に完全に決まったと言える不意打ちであったが、黒星は咄嗟の反応のみで首を右に動かし、紙一重でナイフを躱す。生来の反射神経と百戦錬磨の経験を合わせたその反応は、最早人の身では辿り着けぬ境地に達していた。


 その黒星ならではと言える神速の反応を以てしても、その不意打ちは紙一重で躱す事が精一杯であった。的の小さい顔を狙ってそうであるのだから、胴体を狙えば何処かしらに当たっていた可能性は高い。黒星本人も躱しながらそう考えていたが、無論タチバナが敢えて顔に向けて投げたのには理由があった。


 投げたナイフを追いかける様にタチバナが高速で黒星に迫り、投擲のフォロースルーで自身の顔付近に上がっていた左腕を下げながらその袖からナイフを引き抜くと、その勢いのままに初撃を躱した事で直ぐには動けない黒星の首へと斬り付ける。先のナイフを敢えて顔面に向けて投げたのは、相手の神経をそれに集中させて二撃目が当たり易くする為の布石だったのである。だがその二段構えの不意打ちでさえ、黒星は素早く後退する事で、またも紙一重で躱すのだった。


 とはいえ、流石の黒星と言えどもこの二撃目は反応だけで躱した訳ではなかった。投擲されたナイフを躱すのに神経を集中させていた為にタチバナの動きは意識してはいなかったが、それを躱した瞬間から黒星は読んでいたある。直ぐに次撃が来るという事を、そして今の不意打ちの狡猾さを考えれば、恐らくそれが直ぐには動かせない首に来るであろう事を。尤も、タチバナのそれとは異なり黒星のそれらの思考は殆ど無意識に行われたものであり、それを行える程の実戦経験を黒星は有していた。


 渾身の不意打ちが躱されたとは言え、タチバナがそれに落胆する事などは無かった。右手でナイフを引き抜いた際に下げていた左手で腰のナイフを引き抜くと、黒星の後退とほぼ同時に距離を詰めて斬り付ける。この時点で観戦者であるアイシスは既に何が起きているかさえ把握し切れていなかったが、黒星はそれも反応で躱すのだった。


 その後も身を躱した黒星の体勢や周囲の木々の位置等の全てを考慮し、黒星が躱し辛い角度やタイミングでタチバナは連撃を重ねていく。そのあまりの速さに黒星は身を躱すのに専念するしかない。アイシスは現在の戦況をそう判断していたが、実際にはそう単純な話ではなかった。


 タチバナの動きは確かに人間の領域を超えていると言っても過言では無い速さではあったが、それだけならば黒星にとって対応する事はそう難しくはなかった。黒星には過去にもタチバナに匹敵する速さの相手と戦った経験もあり、そもそも躱せているという事は黒星の速度もタチバナに匹敵しているのである。自身と同程度の速さの相手であれば、いずれかの場面で相手の攻撃を読む事で攻守を入れ替えるのは難しい事ではない。


 にもかかわらずタチバナが攻め続けていられる要因の一つは、タチバナの短剣を扱う技術である。タチバナは殆どどんな体勢からであっても、短剣を正確に、かつ高速で振る事が両手共に出来る。その為、一回一回の攻撃が全て致命傷になり得る上に、攻撃後の隙が殆ど無いに等しいのである。


 残る要因は、その観察力と判断力である。タチバナは戦闘の際、相手の体勢等から常に有効な角度やタイミングを把握し続けている。それは両者の攻撃に関してであり、常に相手が攻撃、または防御をし辛い位置から仕掛ける事が出来るのである。


 だが、常にそうしていれば、逆にそれを読まれる事もある。故にタチバナは時に攻め手を変化させ、読まれない様にと連撃を組み立てている。だがそれでも読みが噛み合う場合もあり、実際に黒星も何度か読んで対応しようとしているが、その度にタチバナはそれを察知し、後出しで行動を変えているのであった。それらを可能としているのが、タチバナの人間としては異常と言える観察力と判断力であった。


「やるな、タチバナ!」


 タチバナの攻撃を紙一重で躱しながら、黒星は思わずそう口にしていた。それはタチバナの戦いに感銘を受けた黒星の、心からの称賛であった。幾多の戦いを経験してきた黒星の相手の中には、タチバナと同等以上の速さの者も居た。タチバナの様に優れた技術を持つ者も居た。だが、戦いに於いてこれ程の創意工夫を重ねた者は居なかった。これ程に手も足も出す事が出来ないという経験は、今までに一度も無かった。


 だが、黒星が最も感動を覚えたのは別の事であった。タチバナの攻撃を躱し続けながら、黒星は確信していた。タチバナにとって、この様な戦いをするのは初めてであると。黒星は自身の戦闘能力にかなりの自負がある。その自身が防戦一方になる程の実力を持つタチバナであれば、今までの相手は基本的に全て瞬時に決着を付けてきた筈である。やや自惚れているとも取れる推測ではあったが、果たしてそれは正しかった。


 自身に匹敵する相手との初めての戦闘に於いてこれだけの事が出来るという、自身を超える戦闘の才能。戦闘が全てと言っても良い尺度を持つ黒星にとって、その才能は何よりも称賛出来るものなのであった。

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