第78部分

「……それは私にとっては幸いな事ですね。私には凝った料理など出来ませんので」


 タチバナがそう言うとアイシスはにやりと笑い、その表情のまま口を開く。


「私にとっても、よ。凝った凝らないの話はこの前したから、今日はもう良いわよね」


 アイシスの返答を聞き、タチバナは考えていた。今一つ中身の無い会話ではあるが、アイシスは随分と楽しそうである。ならばもう少しこの時間を続けても良いかもしれないが、私達……厳密に言えば主であるアイシスにはこの旅に明確な目的があり、それを果たすのは当然早い方が良いだろう。そこまで考えた後、どちらを選ぶかを珍しく迷っていたタチバナであったが、ふと、とある事実に気が付く。


 昨日の事件とそれに連なる事情により、現状では新鮮な飲料水を確保出来ていない。それは冒険に於いては死活問題である。であれば早急に出発すべきであり、名残惜しいが……いや、アイシスにとっては名残惜しいかもしれないが、会話等をして平穏な時間を過ごすのも此処までとすべきである。その様な時間はこれから先にも、それこそいくらでもある筈なのだから。そう考えたタチバナはゆっくりと口を開く。


「……そうですね。それではお嬢様、そろそろ出発すると致しましょう。……私達は現状では新鮮な水源を確保出来ておりませんので。私はテント等を片付けますので、その間にお嬢様もご自身の準備を完了させて下さいませ」


 その言葉を聞き、アイシスはタチバナの予想通りに名残惜しさを感じていた。自身が冒険を求めるのは、その合間にあるこの平穏な時間をより楽しむ為なのかもしれない。そう思える程に、アイシスにとってはタチバナとのこの様な時間はかけがえのないものになっていた。とはいえ自身には明確な目標があり、水源の確保が冒険に於いてどれ程重要であるかも分かっていた。


「分かったわ。でもその前に」


 そう言うと、アイシスは自身の頭を指差す。それを見たタチバナはほんの一瞬だけ固まるが、それにアイシスが気付くよりも早く主の言動の意図を掴むと、すっとアイシスの前に移動する。そしてアイシスのリボンを一度解くと、櫛を取り出してその髪を梳き始める。流石に一日目と比較すればその通りは悪かったが、それでも予想よりはすんなりと梳かされていき、アイシスは自身の髪質の良さに少し驚くのだった。


「……これ程長い間、お風呂に入れないのはお辛くはありませんか?」


 アイシスの髪を梳かしながらタチバナが主を気遣う。それを聞いたアイシスは自問してみるが、当初予想していたものと比べれば随分とましなものだという答えであった。第一、タチバナだって若い女性なのだからそちらはどうなのか。そう思ったアイシスだったが、それを口に出すのは何となく憚られた。


「思っていたよりは我慢出来るものね。まあ、まだ三日しか経っていないけれど」


 そうアイシスが答えた時、丁度髪を梳かし終えたタチバナがリボンを再びアイシスの頭に巻き付ける。


「それは何よりです。それでは、私は今度こそ片付けと準備をして参ります」


 アイシスの依頼を遂行したタチバナはそう言うと、足早にアイシスから離れる。その時になって漸く、アイシスは先程のタチバナの言葉が単なる疑問ではなく、自身を気遣ったものである事に気付いていた。礼を言いそびれてしまったな。そう思いながらも、アイシスも自身の準備をし始める。タチバナは仕事が早いし、私達にはこれから先、まだまだ沢山の話す機会がある。自身の歯を磨きながら、アイシスはそんな事を考えていた。


 それから程なくして、二人は出発の準備を終える。先程まではこの時間が名残惜しいと思っていたアイシスも、今ではまた冒険への熱意を胸に滾らせていた。タチバナは出発前の最終確認をしており、アイシスはそれが終わるのを今か今かと待っていた。


「宜しいでしょう。それではお嬢様……」


「ようし、行くわよ!」


 確認を終えたタチバナが促すと、アイシスが高いテンションで出発を宣言して歩き出す。それを確認してからタチバナも移動を始め、すっとアイシスの右に並ぶとその位置を保ったまま歩き続ける。その時、アイシスは以前から気にはなっていたものの言う機会が無かった事をタチバナに尋ねる事にする。


「ねえタチバナ。前から気になってたのだけど、何で私の右側を歩く様になったのかしら? 以前、というか街に居た時は後ろに居たわよね?」


 アイシスが実際に尋ねると、少しだけ間を置いてからタチバナが口を開く。今まで尋ねて来なかったのはその意図を把握しているからだと思っていたタチバナだったが、他人の行動の意図を把握するのはそう簡単な事ではないと認識を改めていた。


「時系列順にお話ししましょう。先ず、街に居る間は後ろに控えていたのは単純に道や空間が狭かったからです。また、街中であればそうそう武器を抜く機会も無いという事もありますが。そして旅に出て以来はこうして右側に立っている理由ですが、一つは空間が広いのですれ違い等で他者に気を遣う必要が無いという事。もう一つは、昨日もその機会がありましたが、咄嗟にお嬢様の前に出る為という理由。冒険ではいつ何が起こるか分かりませんので。そして何故右側である必要があるのかですが、それは武器の抜き易さの為です。咄嗟に武器を構える必要がある時、お嬢様は左腰にレイピアを差していますから、私が左側に居ては邪魔になるでしょう。私も両腕共に使える様に訓練はしておりますが、本来は右利きであるという理由も一応はありますが」


 そのタチバナの話からアイシスは様々な情報を得たが、最も心に残ったのは別の事だった。タチバナは何かを説明する時には饒舌になる。それは従者として別におかしい事ではないが、アイシスにはそれが何だか妙に愛おしく感じられ、思わず微笑んでしまうのであった。

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