第79部分

「成程ね。ありがとう、良く分かったわ」


 アイシスが説明を終えたタチバナに礼を言う。当初は抵抗感があった年上の相手へのこの口調も、今の関係であれば親しげな感じがして悪くもない。そう思える程度には彼我の距離は縮まっているとアイシスは思っていた。少々性急な判断ではあるかもしれないが、少女の特殊な半生から考えれば無理もない事であった。


「……恐縮です。今後も何か知りたい事がございましたら、何なりとお尋ね下さい」


 アイシスの礼から少々の間を空けてタチバナが言う。敬語が堅すぎる。主にそう言われてからのタチバナは敬意を失わぬ範囲で柔らかな言葉遣いを意識していたが、それは自身がかつて言い渡された指令の中でも上位に入る難しさだとタチバナは思っていた。その指令を出した当のアイシスはその点に留意してタチバナの話を聞いている訳ではなかったが、もう敬語が堅いとは感じていなかった。


 「何なりとお尋ね下さい」タチバナのその言葉を聞いてから、アイシスは考えていた。タチバナはそれを、疑問点が生じたらいつでも聞いて欲しいという意味で言ったという事は分かっている。だが恐らく、私が想定外の事を尋ねたとしてもタチバナは自身の言葉は曲げないだろう。それが自身の過去についてであったとしても。


 本人から話さない限り此方からは尋ねない。今までのタチバナの態度から、その過去についてアイシスはそう考えていた。だが、アイシスにとってタチバナは現在最も身近に居り、そして最も大切な人でもある。そんな相手の事を深く知りたいと思う事は自然な思いでもあった。無論、アイシスに実際に尋ねる気は無いが、タチバナの言葉の一部分によってアイシスの心には小さな葛藤が生じてしまったという訳である。


 その葛藤から意識を逸らす為に、アイシスは景色に目を向ける事にする。今までは別の事に気を取られていて気にしていなかったが、その目には昨日までと比較して明らかに多くの樹木が映っていた。そう言えば、薪拾いをした時に随分と早く集まっていたな。そんな事を考えているうちに、アイシスの先程までの葛藤は消えていった。


 そのまま景色を何となく眺めたまま歩き続けるアイシスであったが、今日はそれに飽きたりする事はなかった。それが最初の二日間よりも景色の変化に富んでいたからなのか、それとも何か精神的な理由によるものなのかは本人にも分からなかった。だが、ただ二人で並んで歩くだけの行為がアイシスにはとても楽しく感じられていた。


 そうして悪くない雰囲気で歩を進めていた二人だったが、突然タチバナがアイシスの前に出て足を止める。また!? そう思ったアイシスだったが、タチバナが荷を放っていない事から昨日程は状況が切羽詰まっていない事を察して同様に足を止める。


「お嬢様、何かが近付いて来ています。警戒を」


 タチバナがやや早口に言う。その言葉にアイシスも周囲に気を配るが、特に異常を感じる事は無かった。しかしタチバナはその気配をしっかりと掴んだらしく、自分達が迂回した丘の方向を凝視していた。アイシスもその方向を同様に凝視するが、そこには何も見えなかった。


 二人がその方向に顔を向けて少し経った頃、漸くアイシスもそれを見付ける。その方から何かが二人の方へ飛んで来ていた。鳥? 瞬間的にそう思ったアイシスだったが、近付くにつれてそれが間違いである事が分かってくる。それはどうやら人の様な形をしているようだった。


「噓でしょ?」


 アイシスが思わずそう呟いた直後、その飛行物体は徐々に高度を落とし、二人からやや離れた辺りに着地する。その衝撃で砂埃が上がり、その姿は未だはっきりとは見えなかった。アイシスが反射的に剣を抜こうとするが、タチバナがそれを右手で制する。


「此方に対する害意があるならば、既に襲い掛かって来ている筈です。下手に刺激しない様に致しましょう」


 タチバナが小声で呟く。あまりの出来事に気が動転していたアイシスであったが、その声によって冷静さを取り戻す。魔法がある世界とはいえ、まさか人が空を飛ぶとは。タチバナの態度から現時点ではそれ程の危機ではない事を悟ったアイシスはそんな事を考えていた。


 やがて砂煙が晴れると、飛行物体の姿がはっきりと二人の瞳に映し出される。それはマントを羽織った若い女性であり、その下には胸と局部だけを隠す衣服を着ていた。


「えぇ――」


 あまりの驚きにアイシスが叫びを上げそうになるが、直近のタチバナの言葉を思い出して咄嗟に堪える。その結果、気の抜けた声が周囲に響くが、その場の誰もそれを気にしてはいない様だった。


 タチバナの陰に隠れる様にして、改めてアイシスはその女性の姿を観察する。背丈は自身やタチバナよりやや高く、この世界で見た人物で言えば勇者ライトと同程度に見える。少女がかつて生きた世界で言えば痴女と呼ばれてもおかしくない様な服装をしているが、この場の緊張感を思えばその類の輩でない事はアイシスにも分かった。その黒髪は非常に長く、地面にも着いてしまいそうな程である。その分前髪も長く、その表情は良く見えなかった。


「くっくっく……はっはっは……」


 アイシスが女性を観察していると、突然その女性が笑い出す。


「何がおかしいのよ?」


 その笑いが何となく鼻に付いたアイシスは思わず聞き返すが、その直後にタチバナの忠告を思い出し、しまったと自らの口を塞ぐ。その瞬間にタチバナの溜め息が耳に届き、少なくとも一触即発の場面ではないと悟ったアイシスは胸を撫で下ろす。アイシスの言葉に一度は笑いを止めた女性だったが、二人の一連のやり取りを見て再び笑い出すのだった。

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