第76部分

 眠りから目を覚ました時、タチバナは自身の頬が濡れている事に気付いた。それを袖で無造作に拭いながら、タチバナは少々驚いていた。自身に未だその様な機能が残っていた事に。奇妙な夢を見た所為だろうか。記憶にある限りは初めて流した涙の理由をそう推測するが、それ以上を考える事はしなかった。直前まで見ていた夢の内容も詳細に至るまで記憶していたが、その意味についての思考も意図的に放棄する。夢とは元々支離滅裂なものである、タチバナは頭の中でそう自身に言い聞かせた。


 この動作をするのはいつ振りか、等と考えながらタチバナが横たえていた身体を起こし、置かれていたカチューシャを拾って身に付ける。この時も主であるアイシスが周囲を見てくれている筈なのだから、早く外に出なければ。そう考えながら急いで靴を履き、テントから出て行く。


 再び青空の下に出たタチバナの前には、見慣れた姿のアイシスが居た。それを付けたまま長時間眠っていた所為で少々くたびれた感じにはなっているが、タチバナが贈った白いリボンを頭に付けたアイシスが石に腰掛けて何やら唸っている。思考に夢中になっているのかタチバナがテントから出て来た事にも気付いておらず、これでは仮に魔物等が近付いて来ても気付く事はないだろう。呆れたタチバナが溜め息を吐くが、込められた意味は果たしてそれだけか。


「おはようございます、お嬢様」


「ほぁう!? お、おはようタチバナ!?」


 タチバナが起床の挨拶をすると、アイシスが身体をびくっとさせながら奇声を発し、その後ぎこちなく挨拶を返す。その様子にタチバナは思わず吹き出しそうになるが、強靭な精神力で何とか堪える。アイシスはあまりの驚きに暫し呆然としていたが、やがて冷静さを取り戻すと続けて口を開いた。


「って、起きるのが早くないかしら? 未だ昼頃……よね?」


 途中で空の様子を確かめながらアイシスが言う。日はまだ高く、自身が思考に没頭し過ぎて時間が予想以上に経っていたという訳ではないようだった。


「はい。私はあまり長い時間眠る必要が無い体質なのです。……それに、お嬢様の勧めで横になる事が出来ましたので」


 アイシスの問いにタチバナが真顔で答える。そういう体質の人が存在する事をアイシスはネットで見て知ってはいたが、それでもタチバナが眠っていた時間は短すぎる。しかも昨日はあの様な事があった上に、その後もタチバナは徹夜をしていた筈だ。そう考えたアイシスはタチバナを疑う訳ではないが、念の為に確かめる事にする。


「……嘘を吐いている訳じゃないわよね? 前にも言ったけど、私は貴方の健康も大事にして欲しいのだけど」


 アイシスが心配げにそう言うが、彼我の体勢の差によってタチバナにはそれが上目遣いで何かをねだっている様にも見えた。それを見たタチバナは相変わらずの無表情で、やはり夢の中で見たアイシスとは表情も言動も異なっている等と思いながら口を開く。


「お気遣いありがとうございます。それと、私は自ら唯一の主と定めた方に嘘を吐くような事は致しませんので、今後もその様な心配は不要だとお思い下さい」


 タチバナがそう答える時の表情は普段と変わっている様には見えなかったが、だからこそ信用に値するとアイシスには思えた。だとすれば既にゲーム等であればチートと呼ばれてもおかしくないタチバナの技能が更に増えた事になり、思わず苦笑しながらもアイシスはタチバナへの信頼を更に強めるのだった。


 状況や気分等が色々と落ち着いた所で、アイシスは自身の空腹に気付く。朝食を取ってからそれ程時間は経っていなかったが、前日に摂取した栄養が少なかった事もありそれは中々のものだった。我慢は出来なそうだと感じたアイシスが、起きて直ぐで悪いとは思いつつタチバナに声を掛けようとした時だった。


「昨日は夕食を召し上がっていませんのでそろそろお腹がお空きでしょう。直ぐに昼食を用意しますので、少々お待ち下さい」


 それを悟ったかの様なタイミングでタチバナがアイシスに声を掛ける。実際には状況から論理的に推測したのだろうと思われたが、自分達の距離が縮んだ様に感じられたアイシスは嬉しさから思わず微笑むのだった。


「じゃあ、私はまた薪を拾って来るわね」


 自主的にそう言うと立ち上がってその場を離れるアイシスを見送りながら、やはり夢の中のアイシスとは随分と異なるとタチバナは思っていた。意図的に考えない様にはしていたが、数年以上振りに夢を見たとなれば、完全に気にしないでいる事は難しかった。しかし変わったという意味なら自分も相当なものである。そう自覚しているタチバナはあまり深くは考えず、自らの言葉通りに昼食の用意を始めるのだった。


 付近に木が多く生えている為にそう苦労せず薪となる枯れ枝を集めながら、アイシスは少し前の事を振り返っていた。タチバナに挨拶をされるまでの間、考え事に没頭し過ぎて自ら申し出た周囲を見ておくという仕事を果たしていなかった事を反省するが、それよりも気になっている事があった。その間、自身の考えている事を口に出してしまっていた気がするが、それはタチバナに聞かれていなかっただろうか。もし聞かれていたら――。そんな事を考えて赤く染まったアイシスの頬を冷ます様に、穏やかなそよ風が辺りを通り過ぎて行った。

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