第75部分

 ふと気が付くと、タチバナは見知らぬ場所に立っていた。その刹那、タチバナはそれが夢であると理解する。もう何年もそれを見た事は無かったが、周囲の不明確な景色や直前の記憶から即座にそうだと推測する事は難しくはなかった。夢の中であるにもかかわらずタチバナの思考は普段と殆ど変わらぬ程にはっきりとしており、直前のアイシスとのやり取りまで鮮明に思い出す事が出来た。今はアイシスが一人で周囲の警戒をしている筈であり、万が一の事を考えれば夢など見ている場合では無い。普段通りの周囲の状況を把握出来る程に浅い睡眠に移行する為にも、一度目を覚まさなくては。そう思った時だった。


「待ちなさいよ」


 聞き覚えのある声がタチバナの背後から聞こえて来る。一切気配を感じなかった筈だが、と一瞬だけタチバナの緊張が高まるが、夢の中であれば特に不思議な現象ではないと直ぐにそれを緩める。そして夢の中とはいえその声を無視する事が憚られたタチバナは声の方へと振り返る。


「お嬢様……」


 そこに居たのはやはりアイシスであった。ブロンドヘアーが似合う美しく整った顔立ちに、勇者パーティーに加入する際に誂えた冒険用の衣服。すっかり見慣れた今のアイシスの姿であったが、タチバナはいくつかの違和感を覚えていた。自身が贈った白いリボンを付けていない事が外見上の最も大きな差異ではあったが、それ以上に気になるのはその表情だった。そしてタチバナは思い出す。かつての主はこの様に、全てを見下すかの様な目をしていた事を。


「……私を夢にまで見るなんて、そんなに私の事を気にしているのかしら?」


 アイシスがタチバナにとって聞き慣れた、だが微かに違和感を伴う声で言う。それを聴きながら、タチバナは懸命に頭を働かせていた。アイシスの言葉の意味は当然理解出来るが、その意図は不明である。そもそもこれは自身の夢であるのだからそう言わせているのは自分である筈だが、その場合は更に意図が掴めなかった。夢の中であるにもかかわらず普段と遜色が無い程に思考が出来ているのも不自然な気がするが、もう何年も夢を見ていない為に実際の所は分からなかった。


「……はい。新たな雇用関係を結んだ今、私が気にすべきはお嬢様の事のみでございますので」


 何もかもが意味不明と言える現状だが、所詮は夢である。全てを無視して一度覚醒してしまえば良い。そう考えてはいるタチバナであったが、目の前のアイシスの姿を見るとその気は失せ、現実と同様に主と従者としての対応をしてしまうのだった。


 タチバナが返答をして暫くの間アイシスは何の反応も返さずにいたが、その表情だけは僅かに変化していった。やがて寂しげな、或いは悲しげな笑顔を浮かべてアイシスが口を開く。だがその表情を初めて見るタチバナには、その表情が意味する主の感情を把握する事は出来なかった。


「……そう。…………羨ましいわね」


 今までに聞いた事も無い程に弱々しく呟く声に、タチバナは言葉を失う。その言葉の意図が先程よりも更に分からないという理由もあるが、自身が知らぬ感情を抱える相手に対しての対応をタチバナは知らなかった。


 悲しげに俯くアイシスと、その内心を表に出さぬ無表情のままそれを眺めて立ち尽くすタチバナ。先程までは周囲の風景は具体的な姿を持っていなかった筈だが、ふと気付けばアイシスが泊まっていたロイヤルルームの景色が広がっていた。その意味もタチバナには分からなかったが、潜在意識は何かを知っているかの様な奇妙な感覚を覚えていた。


「……何か言いなさいよ」


 長い沈黙を破り、アイシスが言う。その表情はタチバナがかつて見慣れていたものに戻っており、タチバナは何故かそれを懐かしく感じた。とはいえ例によってそれはタチバナにとって初めての感覚であり、その正体は分からないままなのだが。


「……申し訳ございません。私の知識が及ばず、何を申し上げれば良いかが分かりかねます」


 アイシスの言葉に、タチバナが正直に答える。それを聞いたアイシスが小さく微笑むが、それは先程のものとはまた違う感情からのものだった。


「……相変わらずつまらない女ね」


 言葉の割には楽しげな表情でアイシスが言う。今のアイシスからは出て来そうにない言葉ではあったが、タチバナは不思議と違和感を覚えなかった。


「……申し訳ございません」


 タチバナが素直に謝るとアイシスは何かを言いたげな目線をタチバナに向けるが、何も言葉を発しなかった。それと似た表情をタチバナは少し前に見た覚えがあったが、リボンの有無の所為か少々異なる印象を受ける。しかしそれは些細な事であり、タチバナがそれを深く気にする事は無かった。


 そうして再びその場を沈黙が支配する。呼吸に伴う両者の身体の僅かな動きの他は一切が静止した空間で、アイシスの表情だけが少しずつ移り変わっていく。それをただ眺めるタチバナの表情に一切の変化は無かったが、その間にタチバナはまた生涯で初めての感情を味わっていた。その胸が痛む様な感覚の正体が悲しみである事は知識として知っていたが、何故それを今自身が感じているのは分からなかった。


「……最後に、いや……あの子を……違うわね。……これからもよろしくね、タチバナ」


 沈黙を破ってアイシスがそう言った直後、タチバナは自身の意識が遠くなる様な感覚を覚える。夢から覚めるのだろう。そう直感すると同時に、その前に何かを言わなければならないという焦燥感が胸の奥に湧き上がる。お嬢様、そう口に出そうとするが上手く声が出せず、やがて周囲の全てが闇に飲まれていく。「さよなら」意識が完全に失われる直前、タチバナはそんな声が聞こえた気がした。

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