第74部分

「はい。いざという時に直ぐに動けるようにと、眠る時は常にそうしておりますが」


 タチバナがそう言うと、アイシスは信じられないといった表情で頭を抱える。どんな日々を過ごして来れば、そんな事を当然の様に話す事になるのか。タチバナの過去が気にならないと言えば嘘にはなるが、それ以上にアイシスが気にしているのはタチバナの身体についてだった。


「あのねタチバナ。そんな寝方をしてるから、私がちょっと覗こうとしただけで起きてしまう事になるのよ。まあそれは私が悪いとして。貴方ならちゃんと横になって寝ていても、脅威がある程度の距離に迫れば気付くでしょう? そしてその脅威への対処に掛かる時間は座っていても横になっていても大差は無いんじゃないかしら? 勿論これらは勝手な推測だから、座って眠らなきゃいけない理由がきちんとあったり、座ったままの方が安心出来るとかだったらそのままでも良いのだけれど。でも、もし私の推測が正しいなら、ちゃんと横になって眠りなさい。危険に備えるのも大切だけど、貴方の身体も大事にして欲しいの。まあ、物凄い危険地帯とかなら仕方ないかもしれないけど、此処はそうではないでしょう」


 本当なら頭を下げてでもタチバナにしっかりとした睡眠を取って欲しいアイシスだったが、タチバナが自らの意思で従者である事も選んだ事もあり、あくまでも主としての態度でその旨を伝える。それを聞いたタチバナは何かを考える様な間を少し空けてから観念した様に口を開く。


「流石のご明察ですね。確かにこうして座したまま眠っていても、横になって眠ったとしても脅威への対処という点では大きな差はありません。ただ私はお嬢様の従者として、小さな差であってもより安全な方を選んでいたというだけです。ですがお嬢様が望まれるのであれば私もそれに従う事に異論はありませんので、仰る通りに横になって休ませて頂くと致しましょう。……但し、今の様にテントを覗かれる様な事がありますと私もその都度目を覚ましてしまいますので、どうかお控え下さいませ」


 タチバナの言葉を最後まで聞きながら、アイシスは思っていた。私の考えとタチバナの行動が異なっていた時にタチバナはこうして私の考えを優先してくれる。それは従者としては当然かもしれないけど、その時にちゃんと自分の行動の意図を説明してくれたり、私が間違っていたり考えが足りない時には巨蜂戦の前みたいに諭してもくれる。そして今みたいに冗談染みた苦言なんかも言ってくれるようになってますます――。


「ええ、起こしちゃって悪かったわね! それじゃあ私は邪魔しない様に出て行くわ!」


 突然思考を打ち切ったアイシスが早口でそう捲し立て、そそくさとテントに入れていた上半身を引き抜く。ますますに続く言葉を考えた時、アイシスは急にそこに居るのが非常に恥ずかしくなったのであった。好き。それは人が人を良く思う時に普通に使う言葉ではあったが、人間関係が希薄だった少女にとっては少々刺激が強い言葉でもあった。


 そうしてアイシスが慌ただしく出て行った事でタチバナは一人テントの中に残される。最後の行動の意図だけはタチバナにも掴めなかったが、アイシスが自身の身を案じているという事は十分に理解する事が出来た。それによって胸に湧いてきた感情はタチバナにとっては正体不明のものだったが、それが悪いものでない事は何となく分かっていた。


 ともあれその主の好意に報いる為にとタチバナが横になろうとするが、少しだけ間を置いてからカチューシャを外す。主であるアイシスがそれが出来ぬままの睡眠を強いられたからには、自身も着替えや身体を拭く等の行為をする訳にはいかない。そう考えて昨日のままの格好で寝ようとしていたタチバナであったが、横になるのであれば流石にカチューシャは外さざるを得なかった。


 外したカチューシャを横に置き、タチバナがその身体を横たえる。座して眠る際には気にならなかったが、横になると仕込んだナイフが少々気になり、邪魔にならない姿勢を探す。そもそもこうして身体を横にする事自体があまりにも久し振りなタチバナにとってはそれ自体が少々落ち着かないものだったが、我が身を案じる主に報いる為にも慣れなければならない。少しの間はそんな事を考えていたタチバナだったが、どのような体勢であろうと好きな時に睡眠を取れる。そう自覚している彼女は直ぐに眠りへと落ちていった。


 タチバナがそうして眠りに就いた時、アイシスは周囲の警戒という仕事も忘れて一心に考え込んでいた。いや、タチバナの事は好きだけど、その好きは別にそういう意味じゃなくて……。でも、そもそもそういう意味で人を好きになった事なんて無いから本当に違うとは限らないけど……。


 テントから脱出して以来、周囲の警戒も忘れてそんな事を考え続けるアイシスと、久々に横になって眠りに就いたタチバナ。ある意味では旅に出て以降で最も危険な状態ではあったが、何が起こる事も無く平穏な時間が過ぎて行くのであった。

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