第73部分

 斯くして一人テントの外に残ったアイシスであったが、その胸の中は熱く燃えていた。それはこの世界で目覚めてから数日、自分がタチバナの為に何かをするという状況がついに訪れた為であった。仮にも主従関係であるのだから基本的にそうなるのは仕方ないとはいえ、それが当たり前という育ち方をした訳ではない少女にとっては常にタチバナに何かをして貰うという状況は少々心苦しいものであった。


 とはいえ、現在のアイシスがすべき事は周囲を警戒する事であるのでその熱意の行き場は特に無かった。積極的に動いてテントから離れてしまってはその目的を果たす事は出来ない。その為、アイシスはテントからあまり離れない範囲で周囲の観察をしていく事にする。今までは他の事で頭が一杯であったが、こうして周囲を観察する事で漸く辺りが見覚えの無い場所である事に気付く。そもそもが初めて訪れる場所であり、意識を失う直前にはあの出来事があったのだからそこまで正確に風景を覚えている訳ではなかったが、少なくともこの様に周囲に樹木が多くはなかった筈だとアイシスは記憶していた。


 という事はタチバナが自身を此処まで運んだという事になり、わざわざそうしたという事はこの辺りにテントを張る理由があったのだろう。その理由は分からないが、後でタチバナに聞いてみようか。そんな事を考えながら周囲を何となく観察していたアイシスだったが、ふとある痕跡が目に留まる。見間違いか、はたまたそういう色の草でもあるのだろう。周囲の風景に似合わぬ赤黒い草を見つけ、そう考えながらアイシスはそちらへと歩を進める。そうしてある程度しっかりと視認出来る距離にまで近付いたが、それはやはりどう見ても血の跡であった。


「ひえっ」


 今までに何度かの戦いを経て魔物の血を見た事はあったとはいえ、それはあくまでも魔物の物であり、しかもそれを気にしていられる状況ではなかった。そんな少女が生まれて初めて大量の血痕を見たとなれば、小さな悲鳴を上げてしまうのも無理はなかった。その血痕の主である3号と呼ばれた男の死体がタチバナの目論見通りに既にその場から消えていたのは、アイシスとタチバナ両者にとって幸運であったと言えるだろう。


 血痕を確認して直ぐにテントの方へ逃げ帰ったアイシスは石に腰掛けると別の方向を向き、それについての思考を始める。あの血痕が誰の物だかは分からないが、そんなに昔のものには見えなかった。血痕の位置から考えても、ここ最近に偶然あの場所で何かが起きたは考え難い。つまりあの血痕は昨夜、タチバナが魔物か何かをやっつけた時に出来たものである可能性が高い。そこまで考えたアイシスの胸中に不安が過る。此処はもう圏外なのだから、魔物がいつ来てもおかしくはないのだと。


 そう思うと急に心細くなってきたアイシスであったが、実際に魔物が来たならば兎も角、それ位で自ら寝るように勧めたタチバナを起こす訳にはいかなかった。とはいえ大層な業物のレイピアを持ち、時間を停止するという摂理にすら逆らう魔法を使えたとて、アイシスはまだまだ冒険初心者の少女に過ぎない。胸中の不安を収めるのには自らの力だけでは足りなかった。


 大丈夫。タチバナならたとえ今寝ていたとしても、私が本当にピンチになったらきっと助けてくれる。アイシスが心の中でそう呟くと、不安は嘘の様に消えて行った。睡眠中にまで頼るのもどうかとは思うけど、まあ実際に面倒を掛けた訳じゃないから許して欲しいわ。そんな事を考えるアイシスの顔には自然と微笑みが浮かんでいた。


 そうして不安が解消したアイシスが改めて周囲の警戒を始めるが、圏外といえどもそうそう何かが起こる事も無く、至って平穏な時が流れていく。当初はそれなりの緊張感を持ってそれをやり遂げようとしていたアイシスも、穏やかな陽気やそよ風によって徐々に眠気を催していった。


 いやいや、普段なら兎も角、周囲は見ていてあげるとか言っておいて寝ちゃ駄目でしょ! タチバナを起こさない為に飽くまで心の中でだが、そう言ってアイシスが自らに喝を入れる。と同時に自身が退屈に弱いという事を実感する。入院中には慣れっこだった筈だが、自由に動けるようになった事で本来の自分が戻ったのか、それとも身体の元の持ち主の性質を引き継いだのか。その理由は不明だが、このままでは如何に気合を入れようともいつかは眠ってしまうかもしれない。そう考えたアイシスはそれを紛らわす方法を考え、やがてそれを思い付く。


 タチバナの寝顔を見てみたい。そう思ったアイシスが悪戯っ子の様な笑みを浮かべ、忍び足でテントの入り口へと向かう。そして音を立てぬよう慎重にテントの入り口を開け、中の様子を窺った時だった。


「お嬢様、どうかなさいましたか?」


 眠っていると思っていたタチバナに声を掛けられ、アイシスは心底仰天する。


「タチバナ!? 貴方、寝ていたんじゃないの?」


 動揺を抑えながらアイシスが何とか言葉を紡ぐ。しかしタチバナが既に座った状態であった事もあり、嘘を吐いて命令違反をしたのかとも考えられる状況にアイシスの動揺は更に強くなる。


「はい。お嬢様がテントに入られるまでは、ですが」


 そのタチバナの言葉を聞き、一先ずアイシスは平静を取り戻す。そうだ、冷静に考えればタチバナがそんな事をする筈が無い。そう思って安心するアイシスだったが、そうなれば同時に新たな驚きと疑問が生まれる。


「え、じゃあ貴方、座ったまま寝ていたの?」


 あまりの驚きの連続に、眠りの途中で起こしてしまった事への謝罪も忘れてそう問い掛けてしまうアイシスであった。 

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