第72部分
これまでの会話を通してアイシスが感じていた感情を、程度の差はあれタチバナも感じていた。だがタチバナはその生涯でそれを感じた事が無かった為、それを楽しさだと認識はしていなかった。そんな本人にとっては名状しがたい感情を胸に抱えたまま、タチバナが口を開く。
「……いずれにせよ、お嬢様があの魔法を使わざるを得ない様な状況に陥る事が無いよう、私がお嬢様をお護り致しますので今度こそはご安心を。いえ、昨日の今日で何が変わったのかと思われるのは当然かと思いますが、実は昨日までの私は少々迷いから本来の実力が発揮出来ていませんでした。ですがつい先程、晴れてそれが解消されましたので、今後は本来の私の力をお見せ出来るかと思います」
そのタチバナの言葉を聞く間、アイシスは幾度も衝撃を受けていた。タチバナでも迷いを抱えていた事、昨日までに見たあれこれ以上の事が本来は可能だという事、そして先程迷いが解消されたという事は自身がそうさせる何かをしたのだろうという事に。その様に精神的な衝撃を受けたアイシスは、当然それらの事について考え始める。
良く考えればタチバナだって一人の女性であり、歳も私とあまり離れていないのだから迷いくらい抱えて当然なのだけど、あまりにも凄い人だからそれが衝撃を受ける程に意外に思えてしまった。その力を当てにするのは構わないと思うけど、あくまで一人の女性だという事は忘れない様にしなくちゃ。でもそのあまりにも凄い力でさえ本来の実力を発揮出来ていなかった事はもっと驚いたわ。流石にそこまで大きくは変わらないとは思うけど、自分で言う位だからもっと凄いのかも。まあ、今後は見せられると言っていたからそのうち見れるでしょう。そしてタチバナの迷いがさっき解消されたって事は私が関係しているって事よね。……特に何もしていないと思うけど、まあ気にしないでおこうかしら。何がきっかけになるかなんて本人にしか分からないものよね。
「それではお嬢様、私はそろそろ後片付けや出発の準備をしても宜しいでしょうか」
アイシスが考え込んでいた事で会話が終了したと判断したタチバナが言う。それを聞いたアイシスは現実に引き戻されるが、出発という言葉を聞いた事である事に気付く。
「……朝食の後片付けは任せるけど、それ以外はまた後で良いから寝なさい。昨夜は寝ていないんでしょう」
アイシスがそう言うと、タチバナの動きが一瞬止まる。顔や動きには出していない筈だが、今日の主は妙に鋭い。……変わったのは自分だけではないという事か。そんな事をタチバナは考えていたが、アイシスは別にタチバナの様子からそれを看破した訳ではない。単にタチバナの性格から考えれば、昨日の出来事の後に呑気に眠れはしないだろうと思っただけであった。
「……確かに昨夜は眠っていませんが、私は二日程度ならば眠らずとも特に問題はありませんのでご安心を」
タチバナが事実に基づいて言葉を返すが、即座にアイシスが反論する。
「良いから寝なさい。ここで出発が遅れる事よりも、貴方が眠気で本来の実力を発揮出来ない方が余程迷惑だからね。貴方の言う事が事実だとしても、実際に今後二日位寝ずに何かをする必要が出て来るかもしれないでしょう。だから今、比較的安全なうちに眠っておきなさい。その間は私が周囲を見ていてあげるから」
本当は当然タチバナの身体を気遣っての事なのだが、タチバナを説得する為により有効であると思われる理由を並べてアイシスが言う。無論、命令である事を強調すればタチバナは従うだろうが、アイシスは可能な限りはその様な事をしたくはなかった。更に言えば後片付け等も自分でしたい所だったが、流石に従者としてタチバナもそこは譲らないだろう。
「……かしこまりました。それでは、先ずは後片付けを済ませて参ります」
アイシスの小さな計略が功を奏し、タチバナがそう言って片付けを始める。とはいえ屋外なので果物の芯等の残り物はその辺に捨てれば良く、倒れたまま朝を迎えた為に就寝前の歯磨きをしていない事に気付いたアイシスがそれを済ませるよりも早く、タチバナは片付けを終える。
「後片付けが済みましたので、私は少々休ませて頂きます。その間はお嬢様が周囲を見張って下さるという事ですが、何かございましたら遠慮なくお声掛け下さい」
タチバナがそう言うと、歯を磨いている最中だったアイシスはその仕事の速さに先ず驚く。そして口を濯いだ後に言葉を紡ぐ。
「ええ。でも基本的には自分でどうにかするわ。昨日みたいな事になりそうなら流石に声を掛けるけど、どうせその前に貴方が気付くでしょう? まあ、あんな事はそう何度も起こらないと思うけどね。それじゃあお休み、タチバナ」
そのアイシスの言葉を聞き、タチバナが微かに微笑みながら答える。
「はい、それでは休ませて頂きます」
そう言い残してタチバナがテントに入って行くのをアイシスが見送るが、アイシスがその微笑みに気付く事は無かった。アイシスの観察力が上昇し、タチバナが感情表現を無理に抑えなくなっても尚、その表情の変化を認識する事は困難なままなのであった。
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