第70部分

「まあ、心構えの話よ。そんなに無理して敬意を示さないでも良いって位に思ってくれれば良いわ」


 自分の願いがタチバナに通じた事ですっかり機嫌を直したアイシスが笑顔で言う。自分はこの世界に来て直ぐに適応する事が出来たが、それは文字通りに生まれ変わったという理由もあっての事であり、話し方を変えるというのは本来それ程容易な事ではない。そう考えての言葉であり、それはタチバナにとっても有り難いものだった。元々そこまで気を遣っていた訳ではないが、言葉遣いに割く意識が減ればその分を周囲の警戒や思考に回す事が出来る為である。


 そうして食事を再開したアイシスが残りの緑果をその酸味と格闘しながら食べ進み、口に入れる度に様々なリアクションを見せるのを、先に食事を終えたタチバナは何をするでもなく眺めていた。アイシスの反応は徐々に酸味に慣れてきた事で段々と小さいものになっていたが、それでもタチバナはそれを笑いを堪えて見つめていた。今度のそれは吹き出す様なものではなく、細やかな微笑みだという違いはあったが。


 続けてアイシスが林檎らしきものを食べている間も、タチバナはそれを何となく眺めては微笑みを堪えていた。以前のタチバナであればこの時間で次の準備等の出来る事をしていただろうが、当の本人はその変化に気付いていなかった。ちなみにタチバナが微笑みさえも浮かべぬ様にしているのは、主を見て笑うのが失礼に当たると考えているからであり、特に自身の笑顔を見せる事に抵抗がある訳ではない。尤も実際にそれを見せたとて、その変化に多くの人間は気付かないだろうが。


「あら、何か用かしら? そんなに見つめて」


 食事を終えたアイシスが言う。強い空腹状態の為に食事に夢中になっていたアイシスであったが、それを終えた事でタチバナの視線に気付いたのだった。そしてタチバナもそのアイシスの言葉によって自身が主を見つめ続けてしまっていた事に気付き、その言い訳を考える。都合の良い事に後程話そうと思っていた話題があった為、少々予定を変えてそれを此処で話す事にする。


「はい。お話をして置きたい事がありましたので、お嬢様がお食事を終えるのを待っていました」


 手を拭く為の濡れた布を差し出しながら、意識して軽めの敬語を用いてタチバナが言う。つい先程言葉遣いに割く意識が減ると考えたものの、従者として主に請われた直後にそれを無視した様な言動をする訳にはいかなかった。


「ありがとう。今話したい事と言うと昨日の事……もっと言えばあの魔法の事についてかしら」


 受け取った布で手を拭きながらアイシスが答える。


「流石はお嬢様、ご明察ですね。……あの時、何故お嬢様は突然にあのような……強力な魔法を使う事が出来たのでしょうか?」


 自身の考えを言い当てたアイシスを軽く称賛した後、タチバナが本題に入る。事前の思考により既に概ねの疑問には答えが出ていたが、それをひけらかす必要は無い。それでも埋まらなかった部分についてを単刀直入に尋ねる。


「そうね、結論から言えばあの首飾り……いえ、時計のお陰なのだけど、詳しく説明するわね。あの時、突然声が聞こえてきたの。『私の後に続いて詠唱して下さい』ってね。それでその通りに詠唱したらあの魔法が発動したってわけ。それで、何でそれが時計のお陰って分かるのかと言うと、実はあの時計を買った骨董屋に向かって行く時にも声が聞こえていたんだけど、後から考えたらそれらが同じ声だったのよ」


 タチバナの問いを受け、アイシスが例の魔法「時間停止」を自身が使用出来た経緯を話す。その後見た夢の内容をアイシスは覚えていなかったが、そこで得た情報はその記憶に残っていた。そのアイシスの話を聞いたタチバナは暫し考え込んだ後、その口を開く。


「……成程、詳細なご説明ありがとうございます。お嬢様のお話を聞く限り、先ずその時計には強大な……あの時の詠唱及びその後の現象から考えて、恐らく対象の時間を停止してしまう魔法を発動する力があるという事になります。時間を停止した事とその後に魔物が砕け散った事の因果関係は分かりかねますが、そこまでが魔法の効果だったのかもしれません」


 タチバナは魔物が砕け散った理由が分からないと言ったが、少女はそれを何処かで見知っていた。時間が停止するという事は分子や原子、果ては素粒子までがその動きを停止するという事であると。熱とはそれらの粒子の運動量の事であり、それが止まる事は絶対零度を意味するという事を。そしてだからこそ、それらは実現不可能なのだという事を。それを実現してしまうとは魔法の力とは恐ろしいものだが、つまりあの魔物達は絶対零度になった事で身体を構成する全てが固体になり、その後の落下の衝撃や風等の外部からの力を受けて砕け散ったのだろう。アイシスがそう考えている間も、タチバナは話を続ける。


「そしてお嬢様にだけ声が聞こえた理由は不明ですが、声を聞かせたという事は、その時計は物体でありながら意思をも持っていると考えられます。どちらも常識では考えられない事ですが、その様な力を本当に持っているとすればその時計は『遺物(アーティファクト)』かもしれません」

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