第69部分

「頂きます」


 タチバナの用意した濡れた布で手を拭いたアイシスがその見た事の無い果物を手に取り、そう挨拶をして噛り付く。手に持った感触や見た目、そして匂いからアイシスが薄々とイメージしていたものにほぼ合致した味がその口内に広がる。バナナね、アイシスが心の中で呟く。


 その果実は外見こそ球状に近い形状をしていたが、それ以外の要素は悉くバナナに近い要素で構成されていた。そしてそこから予想した通り、その味も殆どバナナそのものであった。だが味自体は食べ慣れた物ではあるものの、それが林檎等に近い形状をしている上に、熱帯でもない場所で夏でもないのに収穫出来るというのは十分に異世界を実感出来る事であった。思えばバナナの味わい自体も久し振りのものであり、アイシスは十分に満足感を得る事が出来たのだった。


 更に、今朝の朝食には林檎らしきものとバナナ擬きの他にもう一種類の果実が用意されている。そちらは前者二つよりも小さく、皮を剥かれた状態でも緑色をしているという一風変わったものであった。こちらはどんな味なのだろうか、また食べ慣れた味の見た目違いなのか、それとも全く新しい味わいか。そんな期待に胸を膨らませたアイシスがその緑色の果実を口にした時だった。


「すっ! ぱい!」


 アイシスが物凄いしかめっ面をしながら叫ぶ。さながらコントの様なアイシスのその動きをトレーを挟んだ反対側で見たタチバナは、既に自分の分として割り当てた果実の最後の一口を咀嚼している所だったが、危うく吹き出しそうになるのをその強靭な精神力で持ち堪える。そしてそれを飲み込むと、表情を変えぬままに口を開く。


「……そちらの緑果は酸味が強めですので、芭玉の後に召し上がられてはそう感じられるのも無理はないかもしれませんね」


 その言葉によってアイシスは見知らなかった果実の名前を知る事が出来た。それはアイシスにとって悪くない事ではあったが、そんな事よりも、この世界で目覚めてから初めてとも言える感情をアイシスはタチバナに対して感じていた。


「あのねえ、分かっているなら何で教えてくれないのかしら?」


 恨みがましい視線をタチバナに向けながらアイシスがそう言うが、当のタチバナは涼しい顔をしていた。尤も、その表情をアイシスがどの様に感じた時もタチバナの表情は殆ど全く変わっていなかったのだが。


「いえ、お嬢様はその様に召し上がるのがお好きなのかと思った次第でございます。或いは、お嬢様が召し上がる順番まで私がお決めした方が宜しかったでしょうか?」


 タチバナのその反論を聞き、アイシスは彼我に認識の差がある事に気付く。つまりどちらの果実もこの世界では一般的なものであり、タチバナは主がそれを知らないとは思わないからこの様な言い方になっているのだという事に。そうと分かればタチバナを責めるのはお門違いなのだが、アイシスは抱えた感情、細やかな怒りを収められずにいた。本人はそれを怒りだと認識すらしていないが、ここ数年はその感情を抱いた事すら無かった少女にはその感情をうまく処理する事が出来なかった。それ故にアイシスはその感情をぶつける対象を無意識に探し、そしてタチバナのある部分をその目標に定める。


「いえ、今回の件に付いては私がうっかりしていたわ。でもタチバナ、前々から貴方に言いたい事があったのだけど、貴方が晴れて私専属の従者になった事今こそ、それを言わせて貰うわ」


 そんな精神状態であっても此度の件については素直に謝る辺りはやはり根が善良な少女らしかったが、その後の言葉は少女が生涯で見せた事が無い様な話し方であった。それを聞いたタチバナは姿勢も表情も変えなかったが、内心では少々の不安を抱えていた。自分が時折アイシスを見て笑いを堪えていた事がばれてしまったのかもしれないと。


「……はい。私に到らぬ点がございましたら、どうかご遠慮なく仰って下さいませ」


 タチバナが普段通りの口調でそう返答すると、アイシスは即座に口を開く。


「それ、その口調よ。いや、別に凄い嫌だという訳ではないのだけれど、というか貴方がその方が話しやすいなら別にそのままでも良いのだけど、その、貴方の敬語は少し堅すぎるわ。だから、貴方が今の話し方に特に拘りとかが無いなら、もう少し柔らかい口調で話してくれて良いのよ?」


 細やかながらも怒りから発した指摘の筈だったのだが、その言葉が進むにつれて徐々にトーンダウンし、低姿勢になっていくアイシスであった。確かにアイシスはその言葉通りにタチバナの口調が堅すぎるとは思っていたが、やはりその言葉通りにそれが嫌な訳ではなかった。それ故に実際に言葉にしていくうちに怒りは収まり、最終的にはただの提案になっていた。しかもそれは彼我の立場を考えれば最早アイシス側が譲歩する形となっており、曲がりなりにも主からの指摘であると身構えたタチバナは少しの間呆けてしまう。


「……私としては立場上最適な話し方をしているつもりでしたが、お嬢様がそれをお望みならば善処致しましょう。とはいえ不慣れな事ですので、何か至らぬ点がありましたらご容赦を」


 タチバナのその答えは未だやや堅い印象の残るものであったが、それを聞いたアイシスは先程までの怒りは何処へやら、満面の笑みを浮かべるのだった。

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