第68部分

「いえ、どうかお気になさらず……私はお嬢様の従者なのですから。それでは直ぐに皮を剥いて参りますので、少々お待ちを――」


「待って」


 仕える相手が変わってもタチバナの振る舞いは変わらない。そうアイシスが感じる凛とした態度でタチバナが朝食の用意を宣言するが、アイシスは敢えてそれを遮る。主の意外な申し出にタチバナの動きが一瞬止まり、そして首だけをアイシスの方へ向けて続きを待つ。結果としてタチバナは両手に果物をいくつも持ったまま妙なポーズで固まる事になり、それを見たアイシスは思わず軽く吹き出してしまう。


「……ごめんなさい。その、本題に入る前に普通に立って貰えるかしら」


 アイシスがそう言うとタチバナがアイシスの方へ向き直る。この一連のやり取りを経て、アイシスは自分の考えを一つ改めた。タチバナの振る舞いは変わらないと思っていたが、実際には変わっていると。以前のタチバナであれば自分が話を遮った時点で主の言葉を待つに相応しい姿勢になっていただろうが、今のタチバナはあの妙な体勢で固まるという少々滑稽な動きを見せてくれた。単なる思い込みかもしれないし、それが意識してのものかどうかは分からないが、その変化はアイシスにとっては嬉しく思えるものであった。


「それでわざわざ止めた理由なんだけれど。……その、私にも一つ皮を剥かせて貰えないかしら」


 そのアイシスの言葉はタチバナにとって大層意外なものだったのだろう。アイシスが話し終えてから暫くの間、タチバナは一言も発さず、動く事も無かった。それなりに意を決して言ったつもりであったアイシスが痺れを切らして聞いていたのかと尋ねようとした時、漸くタチバナが口を開く。


「……お返事をお待たせしてしまい申し訳ございません。その、まさかお嬢様がその様な事を仰るとは思っておりませんでしたので。そしてそのお申し出についてですが、お嬢様がそうなさりたいのであれば無論私は構いません。ですが見た目よりは難しいかと存じますので、お怪我などなされぬ様に十分にお気を付け下さいませ」


 敵の動きにはあんなに早く反応していたのに、そう思うとアイシスはタチバナが少し可愛く思えた。そして目覚めてからずっと感じていた不思議な感覚の正体に気付く。元々タチバナは顔立ちも美しく、その所作は凛々しく、そして格好良い。そうアイシスは思っていたが、今日のタチバナは妙に可愛く感じられる。タチバナが変わったのか、それとも自分の受け取り方が変わったのか、或いはその両方か……。


 そこまで考えた所で、アイシスは咳払いをしながら首を振ってその思考を振り払う。そして話し終えて自身の方を見ていたタチバナと目が合うと、顔を真っ赤にしながら早口で捲し立てる。


「ええ、分かっているわ。だからその、貴方に教えて貰おうと思っていたんだけど、やっぱり今は止めておこうかしら? だってほら、今は私凄いお腹減ってるし。その、また今度教えてくれるかしら?」


 自らの申し出を即座に撤回するという主の謎の行動と、その表情の移り変わりにタチバナの頭の中は戸惑うばかりであったが、それを表に出す事は無かった。当のアイシスはタチバナを振り回して心底申し訳ないとは思っていたが、今の状態で皮の剥き方を教えて貰う事は難しいという苦渋の決断だった。皮の剥き方を教わる、つまり自身の背後に立って手を掴まれたり、耳元で話されたりする。それはあくまでアイシスの想像上の風景だったが、それを想像しただけでもアイシスはどうにかなってしまいそうだった。


「……それでは、直ぐに朝食をご用意致しますので少々お待ち下さい」


 自らの意思で選んだ新たな主であるアイシス。その謎の言動の意図が気にならない訳は無かったが、タチバナは従者としてそれを詮索する様な事はしなかった。主の最新の意思を汲み、そう言い残して自身の荷物の方へ向かう。だが当の主は顔を真っ赤にして妄想をしている最中であり、タチバナの言葉にも気付いてはいなかった。


「お待たせ致しました」


 皮を剥かれた果物が載せられたトレーを持ったタチバナがそう言いながら戻って来た時、アイシスはその顔を直視する事が出来なかった。既に冷静さは取り戻していたが、だからこそ妙な妄想をしてしまった恥ずかしさと申し訳なさで顔を上げる事すらままならない。


「……ありがとう。その、悪いわね、何だか振り回しちゃって」


 申し訳なさそうに言うアイシスの様子を見て、タチバナはそれをアイシスの言葉通りに解釈する。

「いえ、お嬢様にも何か思う所がお有りになったのでしょう。お気になさらず、今は朝食をお召し上がり下さい」


 主のその申し訳なさを解消しようとタチバナがそう言う。その気遣いによってタチバナを振り回した事への申し訳なさは軽減されたが、妙な妄想をした事による申し訳なさは寧ろ増大してしまう。とはいえ従者の気遣いを無碍にする訳にはいかないと、アイシスはそれを胸に仕舞う事にする。


「そうね、それじゃあ頂きましょうか」


 そう言ってやや強引に気分を切り替えたアイシスがタチバナの持つトレーを見ると、そこには昨日も食べた林檎らしきものの他に、今までに見た事の無い果物も並んでいた。それを見たアイシスは、既に魔物との戦闘で生命の危機に陥ったり時間停止とかいう非現実的な現象を引き起こしたりしているにもかかわらず、これでこそ異世界ね、と気分を昂揚させるのだった。

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