第66部分

 目覚めたアイシスが最初に感じたのは身体に感じる謎の重さだった。寝惚けたアイシスが重みを感じた辺りをまさぐってみるとそれがポーチに入っていた水筒の重さである事は分かったが、寝起きのアイシスには自身が何故着替えずに寝ているのかすら分からなかった。しっかりと目を覚ます為にも身体を起こそう。そう思った時だった。アイシスが起きた事をどうにかして感知したタチバナがテントに入り、アイシスに声を掛ける。


「おはようございます、お嬢様。お身体の具合は如何でしょうか?」


 その声が自身を心配している様に聞こえたアイシスだったが、未だ完全に覚醒していないアイシスには何の事だかも直ぐにはピンと来ず、取り敢えず質問に答える為に自分の身体の状態を確かめる。その結果には特に問題が無い事を返答しようとした時だった。


「特に問だ……んんっ」


 上手く声が出せなかったアイシスが咳払いをするが、その拍子に少々咳込んでしまう。それによって目が覚めたアイシスだったが、何かを考えるより早くタチバナが慌ててアイシスに駆け寄る。


「お嬢様? 大丈夫ですか!?」


 そのタチバナの慌て様を見た事でアイシスは昨日の事と現在の状況を思い出し、手を軽く上げてタチバナを制する。そして身体を起こすと直ぐに水筒を取り出し、蓋を開けて中の水を一杯、一息で飲み干す。その水は自身の体温の影響かやや温くなっていたが、甚だ渇いたアイシスの喉にはとても美味しく感じられた。改めて体調には問題が無い事をタチバナに伝える前に軽く咳払いをしてみるが、喉の方も問題は無さそうだった。


「ええ。体調には特に問題は無いわ。昨日も言ったけど、疲れて眠っちゃっただけよ」


 タチバナの心配を解く為にもアイシスはなるべく元気な声でそう言ったつもりであったが、それを聞いたタチバナの表情が変わる事は無かった。相変わらず表情が変わらない、そう思った所でアイシスは先程からの微かな違和感の正体に気付く。表情や口調が変わらないのはいつもの事だが、今日は自身を心配している事が読み取れている。それが自身の変化によるものなのか、或いはタチバナの変化なのかをアイシスが考え始めた時、タチバナがゆっくりと口を開く。


「……それは何よりでございます。ですが、この度は私が付いていたにもかかわらず、お嬢様をあの様な危機に陥らせてしまい……誠に申し訳ございません。更にはお嬢様にそのようなご負担をお掛けしてしまい、これでは私は――」


「タチバナ」


 そのタチバナの言葉をアイシスは黙って聴いていたが、突然それを遮る様にタチバナの名を呼ぶ。


「……はい」


 それはタチバナにとっても意外な事であり、アイシスが何を言うのかを予想出来ずに身構える。


「言ったでしょう、自分を責めないでって。貴方ともあろう人が命令違反を犯す気かしら?」


 そのアイシスの言葉を聞いた時、タチバナは衝撃を受けた。少し台詞染みていたかしら。言った当の本人はそう恥じていたが、それを聞いたタチバナはその瞬間に全ての悩みや迷いが消えたかのように感じていた。いや、実際にタチバナが抱えていた全ての迷いや悩みは消え、そして抱えていた謎も全てが解けたのだった。そうして本来の自身を取り戻したタチバナが口を開く。


「……お嬢様。お嬢様はそう仰って下さいましたが、やはりこの度の失態はハシュヴァルド家の従者として許される事ではございません。加えて旦那様のご命令に実質的に反した上での失態でもございますので、仮にお嬢様がお許しになられても旦那様はお許しにはならないでしょう。……つきましてはこの度の失態の責任を取り、私はハシュヴァルド家の従者を辞させて――」


「待っ――」


 タチバナの言葉を、その内容に不安に駆られながらも黙って聴いていたアイシスだったが、それが核心に触れた時には思わずそれを遮ろうと叫んでしまう。しかしタチバナがそれを手で制し、再びゆっくりと口を開く。


「……お嬢様にご不安を抱かせてしまい申し訳ございません。ですが、どうか最後までお聞き下さい」


 そのタチバナの口調は普段と大きくは変わらなかったが、それを聞いて何故か安心感を覚えたアイシスは黙って頷き、タチバナの話の続きを促す。


「……私はハシュヴァルド家の従者を辞させて頂き、もしお嬢様が宜しければでございますが、お嬢様個人の従者としてお雇い頂きたく存じます。……失態を犯した上で随分と勝手な事を申し上げているかとは存じますが、もしお許し頂けるのであれば今度こそあのような――」


「確かに随分と勝手な事を言っているわね。……でも貴方がどうしてもと言うのならば、まあ雇ってあげても構わないわよ?」


 タチバナの言葉を黙って聴いていたアイシスだったが、遂に我慢し切れなくなりそれを承諾する旨を伝える。その言葉はやや毒のあるものだったが、その表情は嬉しさから来るにやけを全く隠せてはいなかった。


「……お嬢様、このままでは路頭に迷うしかない私を、どうかお嬢様の従者としてお雇い下さいませ」


 そんな以前の自身では考えられないふざけた言葉を口にしながらも、アイシスの表情を見たタチバナは自身の判断は間違っていなかったのだろうと思うのだった。

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