第65部分

 テントの付近に戻って来たタチバナは石に腰掛けるとナイフの手入れを始める。刃に付いた旧知の男の血を拭き取りながら、タチバナは先程の戦いを振り返っていた。不意打ちを仕掛けて来る事とそれに続いて本人が突進する事までは読む事が出来ていたが、実を言えばその後の仕込みまでは読めてはいなかった。というよりもナイフにあの様な機構を入れられる事を知らなかったのだが、狼擬きとの戦いの時の自分であれば、急所にそのまま貰う様な事は無いとは思うが躱し切れなかった可能性が高い。もしも刃に毒でも塗ってあればそこで勝負ありであっただろう。


 タチバナの考えは正しく、実際にあの卑劣な……タチバナに言わせれば周到な男のナイフには毒が塗られていた。だからこそ男はあの時に勝利を確信し、だからこそあれを避けられたとタチバナは考えていた。あの時、タチバナの経験や知識から無意識に働く直感、則ち勘は刃先に毒が塗られている事を確信した。つまり避け切れねば死ぬ事になる。それを直感したからこそかつての自分、平和な生活の中で無意識に眠らせていた力が目覚めたのだとタチバナは感じていた。


 そんな事を考えながらナイフの手入れを終えたタチバナはそれを鞘に納めると、再び目を閉じて思考を巡らせ始める。先程の戦いで改めて実感したが、やはり今の自分は甘かった。生命の危機を感じて漸くかつての、本来の自分が目覚めてくれたから事なきを得たが、今後もそう上手く行くとは限らない。そもそも何故自分はこうも甘くなったのだろうか。生業を変えたとはいえ自身の心構えに変化は無かった筈だが。


 そこまで考えたタチバナの瞼の裏にふと浮かんだのはアイシスの顔だった。自分が渡したリボンを付けた、昨日再会して以降のアイシスが微笑む姿。それが突然脳裏に浮かんだ事でタチバナは戸惑うが、自分の甘さの原因は何となく理解する事が出来た。甘い。以前の自分ならそう断じるであろう心優しい、雇い主の娘である少女。その優しさに当てられて自分も甘くなっていたのかと。しかし、タチバナにとっては意外な事だが、それはそれで悪い事ではないと思えた。


 だがその甘さ故にその優しい少女を二度も危機に陥らせてしまった。今の……いや、かつての自分であればそのどちらをも防ぐ事は出来ただろうが、その自分とはつまり、殺す事で生きていた時の自分である。その自分をアイシスはどう思うだろうか。いや、その自分を出来る事なら見せたくはない。


 そこまで考えた時、タチバナは自分が生まれて初めて他者の目を、他者からの評価を気にしている事に気付く。そしてそれと同時に、その様な事を考えている場合ではないとしてこの事についての思考を打ち切る事にしたが、暫しの間その事とアイシスの笑顔はタチバナの頭を離れなかった。


 仕方が無いのでタチバナは一度目を開き、周囲を軽く見渡してから再び目を閉じる。自分は常に冷静であり、自身の思考をコントロール出来る。そう思っていたタチバナだったが、それが幻想であったという事を本日の経験で思い知った。その原因を探ろうと思考を始めたタチバナであったが、その直後にまたも脳裏にアイシスの顔が浮かんで来てしまう。思わずもう一度目を開いて首を振ったタチバナは思った。どうやら自分は思っていた以上にアイシスから影響を受けているのだと。


 他者の評価を気にする事も、他人からこれ程の影響を受ける事もタチバナにとっては初めての経験だが、意外にもそれ自体は悪い事だとは思わなかった。しかしその変化の所為で主を危機に陥らせてしまった。それを打破する為にはかつての自分を目覚めさせる必要があったが、可能ならばそれを見せたくはない。思考が堂々巡りになっている事に気付いたタチバナは、一先ず別の事を考える事にして再び目を閉じる。


 自分の事は兎も角としても、あの死体をアイシスに見せるべきではない。埋葬すべきだったかとも思うが、放っておいても恐らくは問題無いだろう。此処は圏外であり、獲物を求める魔物や肉食の獣には事欠かない。仮にそれらが大挙して押し寄せて来たとしても、今の自分なら対処は容易だろう。そこで思考を一度区切り、タチバナはまた別の事を考え始める。


 ……3号が使っていたナイフだが、機構有りの方は強度に問題がありそうな上に刃にも毒が塗られているだろうから下手に触らない方が良いだろう。だが最初に投げた方は、幹部になった等と言っていた事や男の身なりから考えればそれなりの業物かもしれない。……勿体ない気はするが、此処でそれを我が物とする事をアイシスは良しとしないだろうから止めておこう。……死人の物をどうしようと構わないだろう。そう以前の私は思っていたはずだが……。


 その後もタチバナは様々な思考を重ねていく。空腹は兎も角としても流石に喉が渇いたが、主が飲まず食わずでいるのに自身が飲むべきではないという事。後の事を考えれば睡眠を摂るべきだが、既に失態を犯しているからには万が一も許されないという事。そうして何かを考え続ける事で時間を潰すと共に頭の中を整理する。それがタチバナの目論見であったが、その頭の回転の速さも時には仇となる。やがて考えるべき事が尽きたタチバナは、再び先程の思考の堂々巡りへと陥ってしまうのだった。

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