第60部分

 暫しの間はそのまま膠着状態が続いていたが、やがて忍耐力の低い個体が再びタチバナを目掛けて駆け出す。その刹那、やはりその魔物も前と同様に額にナイフを生やして絶命し、その前に同じ目に遭った個体と同様に崩れ落ちる。アイシスが魔物が動いた事を認識するのとほぼ同時に既にその魔物が絶命している程の早業であり、アイシスもその手段を事前に知っていなければ何が起きたかは分からなかっただろう。当然それを知らぬ周囲の魔物達も何が起きたかを理解する事は出来なかった。


 だがその魔物達も一つの事だけは理解した。動けば死ぬ。そしてそれこそがタチバナの狙いであった。動けば死ぬ事を理解すれば凶暴な魔物と言えど迂闊に動く事は出来ないし、場合によっては割に合わないと撤退してくれる可能性も僅かだがある。とはいえこの状況を打破出来る可能性が僅かに上がったに過ぎず、痺れを切らして一斉に掛かって来ればそれまでという綱渡りの状況である事に変わりはなかった。


 そしてこの状況の僅かな変化によりタチバナには新たな懸念点が芽生えていたが、それは直ぐに現実となってしまう。二体の仲間を葬った方法は理解出来ずともタチバナが危険であるという事を理解した狼擬き達が、剣を抜いていた事で後回しにしていたアイシスをその標的に加え、二人を取り囲む様に移動し始めたのである。仮に自身の後方で魔物が動いたとしてもそれを把握出来ないタチバナではなかったが、やはり一度に複数の方向から動かれた方が対応が難しいのは確かであった。


「……お嬢様、くれぐれも周囲への警戒を解く事の無い様にお願い致します」


「……分かってるわ」


 魔物が迂闊に動けぬ状態を維持する為にタチバナが改めてアイシスに指示を出すとアイシスがそれに応えてタチバナと背中合わせになる様に向きを変えるが、「でも、いつまで?」の言葉をアイシスは呑み込んだ。膠着状態を保っているとはいえやはり消耗は囲まれている側の方が遥かに大きく、特に経験の浅いアイシスにそれは顕著であった。本来ならば冷静さを保っている事自体が奇跡に近いとはいえ、生命の危機に瀕しながら脅威に対して警戒をし続ける事は昨日初めての戦闘を経験した少女には楽な事ではなかった。


 そしてその膠着状態も徐々に崩れ始める。知性を持つが故に迂闊には動けなくなっているとはいえ狼擬きは元々凶暴な魔物であり、こうして獲物を前に長時間我慢をし続けられる個体ばかりではなかった。二体の魔物が痺れを切らし、タチバナの正面とアイシスの斜め前方からほぼ同時に駆け出す。それと同時に、実際に魔物が動く前の段階で殺気からそれを予測していたタチバナも動く。右手で右の太腿に仕込んでいたナイフを抜くとその流れのまま自らの前方の魔物に投げ、そのまま右袖から左手でナイフを抜いてアイシスの方の魔物へと投げる。タチバナのスカートは使われている布の量が多く余裕のある作りになっている為に普段の外見からは分からないが、急な動きに対応する為と仕込んだナイフを取り出す為のスリットが入っていた。


「凄い……」


 斯くして迂闊に動いた二体の魔物は倒れ、タチバナから見れば背後に居た筈の魔物にさえ反応して一瞬で倒してしまった事でアイシスが思わず呟く。確かに見事な業ではあったが、それをしたタチバナにはアイシスの言葉に応じる余裕も無くなってきていた。既に四本ものナイフを使用しており、接近戦で使う為のものやいざという時に投げる為のものを考えれば残りは僅かである。何よりも今の攻防によって魔物達は各個に動く事の無意味さを悟ってしまったかもしれなかった。


 そのタチバナの不安は的中してしまう。狼擬き達が連携し、一斉に仕掛けようと徐々に囲みを狭くしていく。やや遅れてアイシスもそれに気付き、徐々に迫る凶暴な魔物達によってその健気な心も徐々に恐怖と絶望に塗りつぶされていく。タチバナが自己を犠牲にしてでもアイシスを守ろうと決意し、アイシスが一人ならば切り抜けられるであろうタチバナに自分を見捨てる様に命令しようとした時だった。


「私に続けて詠唱して下さい」


 アイシスの頭に声が響く。誰!? 突然何なの!? それがあまりにも突然の事であった事と自身の置かれた絶望的な状況にひどく困惑したアイシスは声を出す事も出来なかったが、声の主は構わず続ける。


「時間がありません、早く!」


「……分かったわ」


 声の主の正体さえ未だ分かってはいなかったが、その声の真剣さに打たれたという理由半分、困惑した頭では素直に従う事しか出来なかったという理由半分でアイシスがそれを了承する。突然のアイシスの言葉にタチバナは当然疑問を浮かべたが、周囲を取り囲む魔物の襲撃を少しでも遅らせようと殺気を送り続けていてそれに反応する余裕は無かった。


『……時とは川の流れの様なもの』


 詠唱!? アイシスが声の主に従って詠唱を始めた時、タチバナの意識が一瞬それに引っ張られてしまう。先程の言葉には反応しなかったタチバナだったが、現在の旅の目的が魔法の習得である筈の主が突然詠唱を始めた事があまりにも意外であった為、思わずそちらに意識を割いてしまったのである。アイシスが声を聞き違えない様に無意識に目を瞑り、タチバナが別の事に意識を向けた事で二人を取り囲む魔物達はそれを獲物が漸く見せた隙だと認識した。


『それを戻す事は出来ないけれど、ほんの一時それを遮る事は出来る』


 しまった。タチバナがそう感じて腰からナイフを抜き、狼擬き達が一斉に駆け出したのとほぼ同時にアイシスが詠唱を終える。その刹那、タチバナが迫る魔物の動きを予測してそれからアイシスを守る為に動き始め、先頭の魔物達が跳躍した瞬間だった。

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