第61部分

「時間停止(クロノ・スタシス)!!」


 目を見開いたアイシスがそう叫ぶと二人の周囲に居た全ての魔物がその動きを止め、宙に居た者は重力に引かれて落下した。それらは落下の衝撃で砕け散り、地上に居た者もやがて風が吹くと共に粒子となって消えていった。魔法が使えない筈の主がもたらしたであろうその出来事は目を疑う様なものであったが、それとは別にタチバナはその光景に強い違和感を覚えていた。しかし今はそんな事を気にしている場合ではないと、タチバナは先ず主の状況を確認する事にする。


「お嬢様、今のは……お嬢様!?」


 その為にタチバナがナイフを仕舞いながら振り向いてアイシスに声を掛けた時、アイシスが膝から崩れ落ちそうになったのをタチバナが咄嗟に受け止める。


「お嬢様、一体何が……何処か負傷されたのですか?」


 魔物は此方に到達していないのだから負傷などする筈が無い。にもかかわらずそれを心配するタチバナの言葉に従者が珍しく狼狽えている事を感じたアイシスは、それを和らげようと可能な限りの笑顔を浮かべて口を開く。


「……大丈……夫よ。少し……疲れただけ…………だから。……でも、ちょっと……立てそう……にない、から……今日は……この辺りで…………休みま……しょう。……悪いけど……説明、は……また……今度ね」


 弱々しい笑顔を浮かべて息も絶え絶えに話すアイシスの言葉を聞きながら、タチバナは現状の把握と冷静さの確保に努めていた。先ずアイシスが倒れたのは負傷等ではなく、疲労によるものである。であればやはり先程の現象はアイシスの魔法であり、強い疲労はその影響であると考えられる。何故突然その様な事が出来たのかは不明だが、それは今考える事ではない。今考えるべきは、この状況でも従者である自身を気遣っている主の為に何が出来、何をすべきかである。


「いえ、今は何も気にせずに楽になさっていて下さい。直ぐにテントを用意して参りますので、もう少しだけお待ちを……お嬢様?」


 そこまで口にしたタチバナが荷物の在処を確認しようと視線をアイシスから外した時だった。アイシスの力が抜け、腕の重みが増した事をタチバナが感じる。まさか――。タチバナがその生涯で最大の焦りを感じながら視線をアイシスに戻した時だった。


 アイシスの小さな寝息がタチバナの耳に届き、タチバナはその生涯で最大の安堵を感じて大きく息を吐き出す。人心地ついたタチバナは手の届く位置に落ちていたアイシスが放った荷物を掴むと、一先ずそれをアイシスの枕にして地面に寝かせる。そして素早く自身の荷物を回収すると辺りを見渡し、防衛まで考えた場合には最もそれに適すると考えられた、周囲に少し木が多い場所に手早くテントを張っていく。


 その最中も無論周囲の警戒は怠ってはいなかったが、テントを張り終えてアイシスの許に戻った際にその無事を確認した時にタチバナは再び強い安堵を感じた。それはタチバナにとっては馴染みのない感覚だったが、今はそんな事は気にせずにアイシスの身体を抱えると、可能な限り揺らさぬ様に気を付けながらテントに運ぶ。テントの中にアイシスを寝かせて毛布を掛けた後、その様子を少しの間観察して異常が無い事を確認し、タチバナはテントを後にする。


 テントから出たタチバナが先程自身が仕留めた狼擬き達の死体を巡り、投げたナイフを回収していく。自分が仕留めた魔物以外は死体すら残さずに消えてしまった事も含め、その頭の中には考えたい事や思う事が多々存在したが、タチバナは先ずは無心でやるべき事を終わらせる事にしていた。テントの近くの石に腰掛けると懐から布と水筒を取り出し、ナイフの手入れをし始める。それを手早く済ませると立ち上がって全てのナイフをあるべき場所に収め、水筒を少し眺めた後に再び椅子に腰掛ける。茜色の空から差す夕焼けの光が今のタチバナには少し鬱陶しく感じられた。


 石に腰掛けたタチバナは少し俯いて目を瞑ると、直ぐに溜まった考え事を整理し始める。最初に考えたのは先程の強い違和感についてだった。タチバナが最も気になっていたのは当然ながら何故アイシスがあのような魔法を使えたのかであったが、考えても答えが出ない事は分かり切っていた。あの時の違和感の正体……それは此方に飛び掛かっていた筈の魔物が真下に落下していたという事だった。


 この世界では物理学はあまり発達しておらず慣性の法則は未だ提唱されてはいなかったが、空中で移動している生物を絶命させたとしてもその勢いが消える事が無い事をタチバナは経験として知っていたし、つい先程実際にそれを見てもいた。しかし先程の光景はそれらとは違っており、跳躍した魔物達が直前の運動を無視して自由落下していた。まるで時間が止まったかのように……。


 馬鹿な。そこまで考えたタチバナが自身の考えを否定する。魔法と言えど万能ではない。時間を停止するなどという魔法を聞いた事は無いし、仮に存在したとしてもそれをアイシスが使えるとは思えず、魔物達がその後に粉となって消えた理由も不明である。尤も、それ以外の効果であったとしてもあれだけの魔物を一瞬で粉々にするような魔法をアイシスが使える訳も無い筈なのだが。そこまで考えた所でタチバナはこの件についてこれ以上考える事は無意味だと悟り、次の考え事に移るのだった。

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