第59部分

 そうして二人が足を止めた事で、待ち伏せが看破されこれ以上息を潜めている事が無意味だと悟った者達が進行方向のやや先の周囲の茂みや丘の中腹辺りから続々と姿を現す。それらは狼に似た魔物であり、体躯は少女が居た世界の狼よりもやや小さめであったが、その剥き出しの牙やそこから垂れる唾液はその凶暴性を如実に表していた。それらはあっという間に数十を数える程に集まり、二人の行く手を塞ぐ様に並んだ。


「……お嬢様、私が付いていながらこの様な事態を招いてしまい……誠に申し訳ございません」


 そう言ったタチバナの口調は普段の淡々としたものとはかけ離れており、その声と言葉の内容からアイシスは自分達が本当に危機に陥っている事をありありと把握する事が出来た。生命の危機を実感したアイシスは心臓が痛い程に高鳴り、胃は強く締めつけられる様に痛んでいたが、不思議な程に冷静さを保つ事は出来ていた。その冷静な頭が危機に瀕した事で最大限に稼働し、アイシスは高速で現状の整理を行い始める。


 確かにあの狼に似た魔物は凶暴そうだし数も多いが、タチバナがどうにも出来ない様な相手には見えない。恐らくタチバナ一人であれば突破、或いは殲滅も可能だろう。つまり現状が危機となっているのは自身が足を引っ張っているからという事だが、それを悔いても現状は変わらない。ならば今出来る事は……。


「自分を責めないで、タチバナ。この道を選んだのは私だし、あの魔物は本来ならばこの辺りには居ない筈の魔物、そうでしょう?」


 タチバナが既に悔いた様な言葉を口にしたのは、その経験からこのままでは私を守り切れないと予測したという事と、自身の警戒が足りないから現状を招いたと思っているからだろう。状況は確かに悪いが、諦める事だけはしたくない。この危機を脱する為にはタチバナの力は必須であり、それを十分に発揮して貰う為にはその悔恨を解消して気力を振り絞って貰う必要が有る。アイシスがタチバナを励ましたのはその様な考えからだったが、その言葉は全て本心からのものでもあった。


「……はい。あれは恐らく狼擬きレッサーウルフの群れでしょう。確かに本来であればもっと境界から離れた場所に棲息している筈の魔物ですが、私がもっと警戒を強めていればこんな事には――」


「タチバナ。今は過去を悔やむよりも現状を打破する事にその能力を使って頂戴。先ずは私はどうしてれば良いかを教えて」


 狼擬きの群れに隙を見せぬ様に全方位に気を張り巡らせながら、タチバナがアイシスの言葉に応じる。その言葉の途中、再びタチバナが悔恨の言葉を発しようとした所でアイシスが割って入る。現状の打破の為にもタチバナに余計な事を考えて欲しくはなかったが、それよりも自身の為に悔いるという事をアイシスはタチバナにして貰いたくはなかった。


「……それではお嬢様は剣を抜き、周囲を警戒していて下さい。お嬢様が隙を見せなければ外見上は武器を持っていない私の方を奴等は狙うでしょう」


「……分かったわ」


 タチバナの言葉に従ってアイシスが剣を抜く。タチバナにより危険な役をさせるのは気が引けるが、それが現状の打破に必要なのであれば選択の余地は無かった。そうしている間にも魔物の群れは徐々に二人との距離を縮めていたが、下手に動いて刺激してしまえば一斉に襲い掛かられる可能性がある以上は距離を離す事は出来なかった。魔物とはいえ獣相手に背を向けて走る等は論外であり、やはり現状は相当に厳しいとタチバナは考えざるを得なかった。しかしいざとなれば自身の身は守る事が出来る自分とは違い、死の恐怖を感じている筈の主がこうも気丈に振舞っていては、タチバナも現状の打破の為に全力を尽くさぬ訳にはいかなかった。


 とはいえやはり一斉に襲い掛かられてしまえばアイシスを守り切るのは難しく、現状を打破するには何らかの理由で狼擬き達に撤退して貰う他に無い。何頭か仕留める事で諦めて貰えればそれが一番だが、乱戦になる可能性を考慮すれば此方から仕掛ける訳にはいかず、この凶暴な魔物達がそれで諦めるとも思えない。となれば何らかの外部要因が必要となる。それは天気の急変でも他の魔物の来訪でも何でも良いが、現在の所はそれらの気配は一切感じられない。つまり現状の最適解はこのままの膠着状態を続けて何かが起こるのを待つという事になるが、幸い相手は待ち伏せを行える程度の知性は持っている。それを看破した此方に対して警戒はしているだろうから、こうして此方が警戒を保って隙を見せなければ安易に襲い掛かっては来ない筈である。そして――。


 タチバナがそこまで考えた所で一頭の狼擬きが我慢の限界を迎え、唸り声を上げながら獲物に向かって駆け出す。その刹那、額にナイフが刺さったその魔物が慣性で少し進みながら崩れ落ちる。それを斜め後ろから見ていたアイシスにも何が起きたのかを視認は出来ず、それは周囲の狼擬き達も同様であった。


 都合が良い。左袖に仕込んだナイフを投げて狼擬き一頭を仕留めたタチバナはそう思って先程中断された思考を再開する。こうして我慢できずに動いた魔物を仕留めて行けば他の魔物への牽制になる。そうして少しでも長く膠着状態を保ち、何らかの外部要因の訪れを待つ。それはあまりにも勝算の低い試みではあったが、それ以外に自身とアイシス双方を無事に済ませる方法を見出せないタチバナはそれを全力で遂行するのだった。

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