第52部分

「ご馳走様でした」


 アイシスがそう言って箸を皿の上に乗せた直後、タチバナがアイシスの目の前にすっと移動してそれを受け取る。なお今回は自身が食べ終えた時に既に小声で食後の挨拶を済ませていた為、タチバナはアイシスに合わせての挨拶はしなかった。


「お粗末様でございました。それでは私は後片付け等をして参りますので、お嬢様は楽になさっていて下さい」


 そう言い残したタチバナはアイシスの返事も待たずに皿や鍋等を持って水路の方へ向かう。いや、油等を水路に流してしまって大丈夫なのだろうか。そうアイシスは思ったが、まあ洗剤等の自然界に無い物を流す訳ではないのだから大丈夫なのだろうと思う事にする。それに流れも速いし、恐らく魚なんかも棲んでなさそうだったし、水量に対しての汚れとしては微量だからきっと平気な筈。アイシスのそれは半ば願望に近い予想ではあったが、タチバナがそうしようとしているならば大丈夫だと思うしかなかった。


 この件についてこれ以上考えても無益だと判断したアイシスは別の事を考えようとするが、特に何も思い付かなかった。冒険や戦闘についての事は自分だけで考えても分からないし、前世の事はあまり考えない方が精神衛生的にも良いだろう。身体を動かすのも食べた直後にはすべきでないから本当にやる事が無い。そう考えたアイシスは観念してタチバナの言葉通り楽にしている事にする。


 石に腰掛けたままぼんやりと空を眺め、それに飽きたら近くの草木の観察をする。丁度その辺りには小さな蝶が飛んでおり、それを見付けたアイシスは何となく嬉しくなる。戯れに目を瞑って見ると鳥の囀りや風の音がより確かに聞こえ、穏やかな日差しやそよ風もより確かに感じられた。冒険の旅の最中とはいえあまりにも平和な情景に、アイシスはいつの間にか微睡みに落ちていた。


 突如聞こえた衝撃音にアイシスが身体をびくつかせながら目を覚ます。やや寝ぼけたまま何が起きたのかと辺りを見るとタチバナが竈の石を崩して既に燻っていた火を完全に消した所であった。


「申し訳ございません、起こしてしまいましたね。後片付けは全て終わりましたが、干している布が乾くまでは出発は出来ませんので、もし宜しければ未だお休みになっていて結構ですよ。とはいえこの陽気でしたらそう時間は掛からないかと存じますが」


 そのタチバナの言葉でアイシスは現状を余すことなく知る事が出来た。自分が寝てしまっていた事も、未だ出発が出来ないという事も。


「いえ、大丈夫よ。そもそも寝ようとして寝ていた訳じゃないからね。それよりも、どうせ未だ出発が出来ないのなら、何か教えて欲しいわ。こう……冒険とか戦闘に役立つ事を。私は未だそういう事を全然知らないから」


 自分一人ではそれについて考えていても仕方ないと思っていたアイシスだったが、タチバナも暇であるならば話は違っていた。言葉通り自分は冒険や戦闘について全然知らないからその知識は身に付けたいし、学校に殆ど通えなかったからか何かを学ぶのは楽しいし、タチバナとの距離も縮められるかもしれない。本来の少女はその特殊な半生から人との関わり合いの経験が少なく、その為にそれが不得手でもあったが、これ程に自分にとって好都合な条件が揃っているのならば少し積極的になる事も出来た。文字通りに生まれ変われたのだから、今まで出来なかった事をなるべくしたいという思いもそれを後押しした。


「……かしこまりました。それでは昨日の続きという事で戦闘についてのお話をさせて頂きます。お嬢様、戦闘に於いて最も大切な事とは何だと思われますか?」


 アイシスの依頼の後、少々の間を置いてからタチバナがそれを受諾して話し始めるが、そこで為されたのはアイシスにとって聞き覚えのある質問だった。何のつもりかと一瞬考えたアイシスだったが、こうして前回の復習から始まるのも学校の授業みたいと考えればそれも悪くないと思えた。


「何って、思考を止めない事じゃないの?」


 タチバナの問いに対し、アイシスは素直に昨日言われた事をそのまま答える。その答えを聞いたタチバナは満足そうに頷いた後、話を続ける。


「流石はお嬢様、しっかりと覚えておいででしたね。無論、余計な思考ならば省いた方が良いですし身体が思考より先に反応するといった事もございますが、それでも戦闘に於いて思考を止めないのは最早前提条件なのでございます。それを踏まえた上でもう少し踏み込んだ話として改めてお尋ね致しますが、戦闘に於いて最も大切な事とは何だと思われますか?」


 前提条件とは上手い事を言う。タチバナの話を聞いてアイシスは最初にそう思った。初戦闘に於いて自身はそれから外れた醜態を見せてしまった訳だが、それを知ったからには今後そうする事は無いので確かにそうだと言える。だが今のアイシスはそれ位しか知らない訳であり、タチバナの問いに正解するには知識も経験も不足しているのは明らかであった。


 つまりこの問いに正解する必要は無いのだが、簡単に諦める事をしたくないアイシスは懸命に考える。前回の講義では距離の話を聞いた事、巨蜂との実際の戦いの経験、果ては以前読んだ小説の知識までを遡り、アイシスなりの答えを導き出すのだった。

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