第51部分

「お帰りなさいませ、お嬢様」


 アイシスが竈の近くまで来た時、左手に鍋を持って調理をしていたタチバナが声を掛ける。


「ただいま、タチバナ」


 用意出来たと言っていた筈なのにタチバナが未だ鍋を持っている事に違和感を覚えてそれについて尋ねようと思ったアイシスだったが、恐らく温かいものを自分に出す為なのだろうと気付いて挨拶だけをする。そしてそれを口にした時にアイシスは奇妙な感覚を覚えたが、それが何なのかもそれを感じた理由も直ぐには分からなかった。


「直ぐに盛り付けますので少々お待ち下さい」


 タチバナがそう言って鍋の中身を皿に移し始めた時、アイシスは先程の感覚の正体に思い当たる。ああ、そういえば私は遂に「ただいま」を言えないまま死んじゃったのか。だからさっきそれが言えたのが嬉しくて……。そこまで考えた所で、無意識に考えない様にしていた家族の事をアイシスは思い出してしまう。美しい思い出の中の家族ではなく、自身が遺して来てしまった、自身の死を知ったであろう現在の家族の事を。その時点でアイシスは自身の頬を涙が伝った事に気付き、首を振って意識的にそれについての思考を打ち切る。思い切り泣いてしまいたいのは山々ではあったが、そんな事をしてもタチバナを、今の自分にとって最も大切な人を困らせるだけだ、と。


 料理を盛り付けた皿をアイシスに渡そうとしていたタチバナはその一部始終を見てしまっていたが、何も言葉を発さなかった。だがそれはどう声を掛ければ良いか分からなかった訳ではなく、コミュニケーションが不得手だと自覚しているタチバナでも声を掛けるべきではないと分かったからだった。


「お嬢様、こちらをどうぞ」


 アイシスが思考を打ち切って垂れていた涙を袖で拭いた少し後に、タチバナが皿を差し出しながら声を掛ける。


「ええ……ありがとう」


 アイシスがそれを受け取って礼を言うが、強引に思考を打ち切ったとはいえ気分の切り替えは未だ出来ていなかった。しかしその皿から漂う食欲を刺激する匂いがアイシスの意識を食事へと向けさせる。溢さぬ様にと注意しながら椅子代わりの石に移動したアイシスが改めて皿を観察すると、そこには碧豆と麦の粉の麺を炒めたらしき物が盛られ、緑の植物が添えられていた。見た目は鮮やかできれいね。パスタかしら、とアイシスは思ったが、その太さは寧ろうどんに近かった。


「お嬢様、冷める前に頂いてしまいましょう」


 アイシスが料理を観察している間に自らの分を用意して席に着いていたタチバナがアイシスに声を掛ける。


「ええ、そうね。それじゃあ頂きます」


「頂きます」


 タチバナの声で我に返ったアイシスが促されるままに食前の挨拶をし、タチバナが小声でそれに続く。また目を離したらタチバナは一瞬で完食しているのだろうと予想したアイシスはその様子を是非とも見たく思ったが、乙女の食事をまじまじと眺めるのは失礼に値するだろうと思い止まって自身の食事に集中する事にする。しかしその前にある事が気になり、タチバナへと尋ねる。


「ところでタチバナ。この緑の草? は何かしら」


 碧豆は自分が探して来たものだが、市場で買った食料には野菜類は含まれていなかった筈である。となれば答えはある程度予想は出来たが、アイシスはその正体を確かめてから口にしたかった。


「この辺りで採れた野草でございます。やはり穀物や肉類だけでは栄養が偏りますので。無論きれいに洗ってから使用していますのでご安心下さい」


 案の定既に皿の中身が空になっていたタチバナがアイシスの問いに答える。つっこんでしまいたいという欲を何とか抑えてアイシスがその言葉について考えを巡らせる。言っている事は至極尤もだが、文明社会で生きていた少女には豆は兎も角、野草を口にする事に何となく抵抗があった。しかしタチバナがこうして出して来たからには、食べないという選択肢はアイシスには無かった。とはいえ抵抗は未だある為、先ずは麺と豆を食べる事にしてそれらを箸で掴んで口に運ぶ。


 その結果、味の感想よりも先にアイシスが思った事があった。うどんよね、これ。麦の種類が小麦とは違うのか食感や味わいに若干の差はあったが、それでもアイシスの舌と脳はこれをうどんだと認識していた。うどんは消化に良いという事で点滴生活になる前には良く食べていたという事もそうさせる要因の一つであったかもしれなかった。だがうどんと豆を同時に炒めて塩や香辛料で味付けをするという物を食べた事は無かった為、中々に新鮮な味わいで美味しいなとアイシスは思った。碧豆もエンドウ豆と似た味で、昨日食べた肉類とはまた別の旨味を感じられた。


 そして問題……ではない筈なのだがやはりアイシスには少し抵抗がある野草を食べる時がやって来た。元の世界でもそこらに生えている野草に食べられる物もあるという事は知ってはいたが、無論実際に食した事は無かった。だが冒険を続けるなら、という最早お馴染みの思考を経てアイシスが思い切ってそれを食べる。


「あ、意外とおいひい」


 その感想をアイシスは思わず口にしてしまう。それはしっかりと味付けがしてあるという事もあってか特に苦味等も感じる事は無く、歯ごたえもあって悪くない味わいであった。心配事が無くなったアイシスが皿の中身をどんどんと食べ進め、その度に表情を緩ませる様子をその作者のタチバナはただ眺めていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る