第50部分

「お帰りなさいませ、お嬢様」


 任務を遂行したアイシスが水路付近で地図を眺めていたタチバナの傍にまで近付いた時、タチバナが地図を下ろしてアイシスに声を掛ける。


「お待たせしちゃったかしら? 多分碧豆っていうのはこれだと思うんだけど」


 地図に目を落としていたし道から外れた地面には草が茂っていて足音はしていなかったと思うのだけど、しっかりと私の接近に気付くとは流石ね。そんな事を考えながらアイシスもタチバナの挨拶に応じ、仕事の完了の確認をタチバナに申し出る。周辺には他にそれらしい物も見当たらなかったので恐らく間違いないとはアイシスも思っているが、万が一も考えると自分で言い出すべきだと思えての事である。


「いえ、私の方もつい先程済みましたばかりでございますので。碧豆についてはそちらでお間違いございません。それでは直ぐに昼食のご用意を致しますので、そちらの薪と豆は置いて楽になさっていて下さいませ。……もしお暇でしたら周囲を見て回るのも宜しいかと存じます」


「分かったわ、お願いね」


 タチバナの言葉に従って先ず抱えた薪をアイシスが地面に置き、両手の碧豆はタチバナへと渡す。後は待っていれば食事が出来上がるという状況になった訳だが、この後はどうしようかとアイシスは考える。無論近くの石に腰掛けてタチバナが調理する所を眺めていても良かったが、タチバナがわざわざ周囲の散策を勧めて来た事が気になった。その前に少々間があった事も考えると、もしかしたらタチバナは自分が料理をする所を見られるのが恥ずかしいのかもしれない。その仮定を信じる事にしたアイシスは、クールなタチバナにも可愛い所があるのだと思うと心底嬉しくなるのだった。


 事実がどうあれ、タチバナにそういう思いがあるのだとすれば此処に居座っている訳にはいかない。そう思ったアイシスは取り敢えず水路を見てみようとそちらへと歩き出す。思えばそういった川の様なものを間近で見た覚えは少女には無く、それに近付くにつれて何となく期待が湧いて来るのだった。


 斯くして水路の間近に辿り着いたアイシスが最初に思ったのは、思ったよりもずっときれいという事だった。何処かで見聞きしたのか農業用の水路というものはもっと汚いイメージがあり、それによってその水で色々と洗ったりするのに抵抗があるのだった。しかしこうして屈んで間近で見ると、それはまるで清流の様に澄んでいた。流れも思ったより早く、これならば澱みも無く水も清潔さを保てるかもしれないと思えた。直接飲み水として使用する事だけは未だ抵抗があったが、冒険を続けるならばいずれ雨水等を飲む必要もあるであろう事を思えば我慢せざるを得ないだろうと思えた。後はこの身体が前の私のものと違って丈夫である事を願おう。アイシスはそう思った。


 この手の水の流れに近付いたのは初めてなアイシスはそれに更なる興味を持ち、落ちない様にと恐る恐る手を伸ばす。そしてアイシスの細く長い指が水面に触れた時だった。


「冷たい!」


 思わずそう声に出してしまう程、その水は冷たかった。周囲の光景や肌に伝わる気温から、四季が有るとすれば今は春から初夏だろう。そう予想していたアイシスだったが、目の前の水路の水はそこからイメージする水温よりもずっと低く感じられた。もしかしたら近くで湧き水が出ていてそれを利用しているのかもしれない。だとすれば飲んだりしても大丈夫かも。生前の知識、但し少々うろ覚え気味なそれによってそう考えたアイシスには、段々と目の前の水路の水は安全なものに思えて来た。


 この様な水路を初めて見たアイシスは、未だそれへの興味は尽きずに観察を続けていた。生き物でも居ないかとタチバナから離れ過ぎない程度に探し回ってはみたが、魚等の姿は確認する事が出来なかった。少々がっかりしたアイシスだったが、これだけ澄んだ水なのに魚も居ないという事はやはり川等から引いて来ている水ではなく湧き水の類であると考えられ、此処の水を利用する事への安心感は増すのだった。


 やがてアイシスは身に付けたポーチから水筒を取り出すと中身を地面に流し、目の前の水路の水で内部を二回濯いだ後にその水で中を満たす。その後ハンカチを取り出すと、水筒の外部に付いた水分を拭き取る。良く考えればタチバナが此処で水を補給すると言っていたのだから、私はあれこれ考えずともそれに従えば良かったのだ。そう思っての事だったが、それでも此処でした思索が無駄な事だとは思わなかった。何れはタチバナと並び立てる存在になりたい。その為にはこうして色々な事を考え、その上で色々な知識や技術を身に付ける必要があると思えた。


「お嬢様、お食事のご用意が出来ましたのでそろそろお戻り下さい」


 アイシスが水筒を仕舞い、そろそろ戻ろうかと歩き出した直後にタチバナの声が聞こえて来る。


「ええ、少し待って」


 あまりのタイミングの良さに思わず苦笑しながらアイシスが答える。そのままタチバナの元へと歩いて行くが、ふと立ち止まるともう一度水路の前でしゃがみ込んで手を洗う。アイシスが手を振って水気を飛ばしながら立ち上がり、再び歩き出すと不意にそよ風が吹き抜ける。


「気持ちいい」


 それはアイシスの濡れた手を冷やし、その感覚はアイシスにささやかな喜びを見出させた。穏やかな青空と日差しにそよぐ風。それらは病室のベッドには無かったものであり、今それをこうして味わえる奇跡に改めて感動を覚えながら少女は歩を進めるのだった。

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