第49部分

「成程ね。だから番人も必要無いって訳なのね」


 そうタチバナに答えながら、アイシスは思っていた。責任を負いたく無いという思いはどんな世界の大人達も似た様なものなのだなあと。とはいえそんな事はアイシスにとってはどうでも良い事であり、その意識は柵の向こう、圏外へと向いていた。あれを越えれば人類の生活圏を抜け、魔物が蔓延る地を往く本当の冒険が始まる。そう考えると当然不安は感じたが、それよりもずっと大きな期待がその胸には溢れていた。そう思えるのも全ては隣のタチバナのお陰であり、優秀で信頼できる従者への感謝の念は絶えなかった。


「ところでお嬢様。遂に境界へと辿り着いて逸る気持ちはご理解出来ますが、良い時間でもございますし先に食事やその他の準備を済ませるべきかと存じます。丁度近くに農業用の水路もございますので、減ってしまった水筒の補給や洗い物等も行ってしまいましょう。圏外に出てからはいつ出来るかも不透明になりますので」


 そのタチバナの言葉はアイシスの逸る気持ちを抑えて冷静さを取り戻すには十分な効果があった。タチバナが傍に居てくれるお陰で滅多な事は起きないとは思ってはいるが、下手をすれば命を落とす可能性があるのだから可能な限りの準備はしておくべきである。特に昨日という一日だけでも分かった布の便利さを考えるとそれらが洗えるうちに洗っておく事は必要だと思えた。無論、少女にとってそれらの行動をそこらの水路で行うという事に若干の抵抗はあったが、これからはそんな事を言っている場合でない事も十分に理解はしていた。


「そうね。それじゃあその辺りの事は悪いけど任せるわね。私はまた薪でも集めているわ」


 そうしてアイシスはタチバナの提案を受け入れたが、全自動洗濯機での洗濯すら未経験な少女にはそれらを行う為の技術も知識も無い為、全面的にタチバナに任せるしかなかった。その事を未だ気にしているアイシスはせめてもの仕事として昨日経験した薪拾いを自ら申し出る。


「……お嬢様。それでしたら碧豆という食材がこの付近に自生している筈ですので、そちらもついでに採集をお願い致します。名前の通りに緑色をした豆が生っておりますので、実際にご覧になれば直ぐに分かるかと存じます」


 すると珍しい事に、タチバナがアイシスに追加で仕事を頼む。それはアイシスにとって聞いた事が無い食材だったが、見れば分かるという事なら自分でも問題は無いだろうとアイシスは思った。誰でも出来る仕事かもしれないが、タチバナが自分に仕事を頼んでくれた事をアイシスは嬉しく思った。


「分かったわ。それじゃあ適当に探し回りながらあそこの水路の方に向かうわね」


「お願い致します。それでは私は先に水路の方へ行って雑事を済ませて参りますので、荷物はお預かりしておきます」


 張り切ってアイシスが宣言すると、タチバナがそう言ってアイシスの荷物を受け取る。本来であれば全ての雑事は従者である自身がすべきだとタチバナは考えていたが、それよりもアイシス本人の意思をより尊重していた。当然ながら一人で全ての仕事をするよりも二人で分担した方が早いので、職業意識を抜きにすれば効率主義的な側面もあるタチバナにとっては有難い事でもあったが。


 タチバナが両手に荷物を抱えて一足早く水路の方に向かうのを確認し、アイシスが周囲を見渡す。すぐ近くには探している物はどちらも見当たらなかったが、タチバナが向かった場所から離れ過ぎない様に気を付けて周辺を探していく。昨日と違い敢えてタチバナが自身から離れない旨を伝えなかったのは、自身がそれを既に把握している事を信用しているからである。そう解釈したアイシスは見方によれば雑用とも取れる仕事を張り切って熟すのだった。


 薪となる木の枝はそれなりに見つかるものの中々碧豆を見付ける事が出来ないアイシスだったが、偶々目に入った樹木に違和感を覚えて良く観察してみる。するとその木に何やら蔦の様なものが這っており、その蔦から伸びる葉の辺りに豆の鞘らしきものが付いている事が分かった。恐らくこれが碧豆なのだろうと当たりを付けたアイシスは、勝手に普通の草の様に生えていると思い込んでいたから見付からなかったのかと納得する。そしてこれは考え過ぎかもしれないが、先入観を捨てるべきだとか観察力を鍛えるべきだとかそういう理由でタチバナはこれを自身にさせたのかもしれない。そう思うのだった。


 コツを掴んでしまえば見付けるのはそう難しくなく、その気になればそこら中にある木から碧豆を大量に入手する事も可能なアイシスだったが、あまり多くを持っては行かない事を選択する。今後自分の様に大志を抱いて旅に出る者やこの辺りに暮らす野生動物の事を考えても独り占めする様な事は気が引けた。尤も、そもそも荷物の包みをタチバナに渡した現状ではどちらにせよそう多くを運ぶ事は難しかったが。更に薪も同時に集めていては尚更である。


 最終的に両腕で薪を抱え両手で豆の鞘を握り締めたアイシスが水路付近に辿り着いた時、その付近には昨日使った布達が木の枝の間を通した紐に干されているのが見えた。例によって簡易的な竈と椅子代わりの石も用意されており、金属のトレーと鍋も既に用意されていた。相変わらずの仕事の早さに、タチバナと出会えた事に心から感謝せずにはいられないアイシスであった。

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