第47部分

「かしこまりました。少々お待ち下さい」


 アイシスの表情の変化を注視していた結果、少しだけ遅れてタチバナがアイシスの依頼を承諾する。一度左手の袖からナイフを引き抜こうとしたが、一瞬の間を置いて右手の袖からナイフを取り出す。右手の手袋を外して果実を持ち、左手で持ったナイフを果実に当てる。そのまま高速で果実を回転させていくとあっという間に皮が剥かれ、最終的には一本の長い紐状の皮と果実本体に分けられた。


「お待たせ致しました」


 そう言いながらタチバナが皮を捨て、果実をアイシスへと差し出す。だがタチバナのあまりにも見事な皮剥きの技術に見とれていたアイシスの視線は皮の方へ向いており、それを直ぐに受け取る事が出来なかった。その為にタチバナが差し出した果実と右手は行き先を失っていたが、タチバナは催促をする事も無くただ主が受け取る事を待っていた。


「ああ、ご……悪かったわね。貴方の技術があまりにも見事だったから見とれてしまったわ」


「いえ、お気になさらず。それでは私はお嬢様が朝食をお召し上がりの間に片付けと準備を済ませて参ります」


 やがてタチバナの右手に気付いたアイシスが謝りながら果実を受け取ると、タチバナはそう言ってテントの方へ歩き出す。そんなタチバナを見送ったアイシスは、先ずは右手にある果実をまじまじと眺める。皮の色は違っていたが、林檎に良く似ている。しかし麦畑の様子から季節を推測する限り、林檎にしては生るのが早い気がするが、世界自体が違うのだから様々な法則が違っていても全くおかしくはない。そんな事を考えていたアイシスだったが、やがて空腹を感じて意識を食べる方へ向ける。


「頂きます」


 そう言って右手の果実に嚙り付いたアイシスが最初に思ったのは、「林檎じゃない」だった。彼女がかつて食した品種化されたものとは味わいや食感は異なっていたが、大まかな味は間違いなく林檎であるとアイシスには感じられた。異世界ならではの体験とはいかなかったが、これはこれでアイシスにとっては喜ばしい事でもあった。木から採った林檎を噛り付いて食べる……それは少女がいつか夢見た出来事だった。……折角だから皮のまま食べれば良かったとアイシスは少しだけ後悔したが、これからいくらでも機会はあると思い直して再び林檎に噛り付くのだった。


「ご馳走様でした」


 やがて林檎を食べ終えたアイシスがそう言って周囲を見渡すと既にテント等は跡形も無く、二人分の荷物の包みといつの間にか手袋を付け直していたタチバナだけが残っていた。少しの間物思いに耽ってはいたけど、本当に仕事が早いわね。これだけ有能な従者が傍に居てくれたら私、駄目な大人になっちゃうかも。それを見たアイシスがそんな事を考えている間にタチバナがアイシスの元へ歩いて来ていた。


「お嬢様、お手をお拭き下さい」


 そう言いながらタチバナが差し出した濡れた布を受け取って林檎の果汁でべた付いた手を拭いている間、アイシスは思っていた。私、本当に駄目な大人になっちゃうかも。と。そうならない為にもこの旅は成功させないと、と決意を新たにしながらアイシスが立ち上がる。


「ありがとう。助かったわ」


 でも先ずは感謝の気持ちは忘れない様にしなければと、惚けていて咄嗟に言えなかった礼を言いながらアイシスが布をタチバナへと返す。タチバナは何も言わずに受け取り、頭を下げた。従者に対する主の取るべき態度はアイシスには分からないままだったが、別に構わなかった。少なくともタチバナが嫌がらない限りは思う通りにやってみるつもりであった。


 ともあれこれにて腹も膨れて出発の準備は万端となった訳であり、その全てをタチバナにさせた事を若干気にしながらもアイシスの意識は未来へと向いて行く。先ずはこの人類の生活圏を抜け、本当の冒険を始めよう。そう思うとアイシスは昨日の様に胸の高鳴りを抑え切れなくなり、二つ並んで置かれた荷物の所へ小走りで向かう。


「それじゃあタチバナ、今日も行きましょう」


 荷物の許に辿り着いたアイシスが自分の分を手に取りながらタチバナへ呼びかけると、タチバナが一つ息を吐いてから歩き出す。そのままアイシスの許に着くと、荷物を左手で持ち上げながら口を開く。


「かしこまりました。それでは参りましょう」


 そうして穏やかな青空の下、今日も二人の少女が荷物を抱え、武器を携えて歩き出す。片方はメイド姿であり、片方は大きなリボンを頭に着けてと冒険の旅にはやや不釣り合いな姿ではあったが、一枚の絵画の様な不思議な魅力に溢れている……と、かつての少女なら思ったであろう。そしてその少女の現在、アイシスはこう思っていた。頭が痒い、と。いくら何でも音を上げるのが早過ぎるだろうと我慢をしてはいたが、やはり年頃の乙女としては風呂に入らずにいる事は中々に気になるものであった。


 とはいえ冒険者を志すならば慣れねばならぬ事であり、アイシスは希望を思い描く事でその事を意識の外に追いやる事にする。何としても件のエルフの元に辿り着き、魔法を習得してタチバナの隣に立つに相応しい人になる。……そしてその魔法でお風呂の問題を解決出来ないかなあ。

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