第45部分

 しかし、目を閉じた時からアイシスの心中には急激に不安が湧き上がってきていた。……もし全部が夢だったらどうしよう。本当は私は異世界転生なんてしてなくて、これは死ぬ寸前の自分が見ているただの夢で、タチバナも私の妄想の産物で、眠ってしまったらもう二度と目覚める事が無かったら……。或いは目が覚めたらやっぱり病院のベッドで、また碌に動かない身体で痛みに耐えるだけの生活が……。そんな不安に耐え切れなくなり、アイシスが目を見開いて深く呼吸をする。


「お嬢様?」


 寝に入った筈のアイシスが突然目を開いた事でタチバナは当然それを案じて声を掛ける。そのタチバナの姿と声にアイシスは心底安心したが、目を閉じたらまた余計な事を考えて不安に支配されてしまうかもしれない。そう思うと目を瞑る事に恐怖を感じてしまうが、身体は強く睡眠を求めていた。旅を続ける為には眠るしかないが、眠気と不安によってアイシスの頭は上手く働かず、余計な思考を振り払う事が出来ずにいた。その様な状態では最早恥ずかしいだのアイシスらしくないだのと言っている場合ではなく、アイシスは意を決して口を開く。


「……タチバナ。……その、私が眠るまで、手を握っていてくれないかしら」


 その言葉は強気なアイシスには似つかわしくない。口にした本人もそう思う言葉であった。それはタチバナも同様ではあったが、アイシスは今日初めての実戦を経験し、自身という保険が掛かっていたとはいえ生命の危機も初めて経験したのだ。強気に振舞っていても未だ年頃の少女なのだから、こうして不安に駆られるのも無理は無いだろう。そう考えたタチバナは主を安心させるべく、なるべく優しい口調でその願いを承諾する。


「かしこまりました。……私が共に居る限りお嬢様のご安全は保証致しますので、どうか安心してお休み下さい」


 アイシスが感じている不安はそういう事ではなかったが、その心強い言葉はアイシスを少し安心させた。何よりも自身の願いを承諾してくれた事を嬉しく思いながら、アイシスは右手をタチバナの方へと差し出して視線をタチバナから逸らす。それを見たタチバナが少し何かを考える様な間を空けてから、左手でアイシスの右手を掴む。手袋のすべすべとした感触越しにタチバナの確かな体温を感じた瞬間、アイシスの不安は嘘の様に消えて行った。


 とはいえ先程も急に不安が湧いてきたのは目を瞑ってからであったと、覚悟をもってアイシスが目を閉じる。視覚情報が無くなった事で他の感覚が鋭敏になるが、テントに阻まれた虫や蛙の声は遠い世界の出来事の様であり、嗅覚にも特別な刺激は存在しなかった。よってこの時アイシスにとって確かな感覚は、右手に伝わるタチバナの手袋の感触とその体温だけだった。その確かな感覚は暗闇の中でもアイシスに不安を抱かせる事は無かった。先程の不安が嘘の様な安心感の中、やがてアイシスの意識はまどろみに溶けていくのだった。


 アイシスが眠りに就くまでの間を微動だにせずに居たタチバナも、自身の左手に伝わるアイシスの力が抜けた事でそれを知る。「私が眠るまで」という主の願いは既に果たした事にはなるのだが、その後アイシスが寝息を立て始めてからも暫しの間、タチバナはアイシスの左手を握ったまま動かずにいた。やがて眠っているアイシスが無意識で身体を動かし、その右手が自身の左手から離れようとした時に漸くその手を離す。タチバナはその後少しの間自身の左手を見つめていたが、手を離してもアイシスが眠り続けている事を確認すると立ち上がり、蝋燭を手に取って吹き消すとテントの外に出て行った。


 空ではもう完全に日の気配は消え去り、月と星が優しく地上を照らしていた。竈の薪も既に燃え尽きていたが、夜目の利くタチバナは周囲を探る事に苦労はしなかった。アイシスの手を握っている間も常に周囲への警戒を怠ってはいなかったが、やはりこうして外に出て視界も用いてのそれとは把握出来る範囲は大幅に異なっていた。そうして付近に脅威や異常が無い事を確認したタチバナはテントの裏手に回ると、そこに生えている木の根元で軽く跳躍する。そのまま軽く右手を伸ばして自身の身長の倍程の高さに実っていた林檎に似た果実を一つもぎ取り、音もなく着地した。


 タチバナはそのままテントの入口側に戻って夕食時に座っていた石に再び腰掛けると果実を一度自分の太腿の上に置き、右手の手袋を外す。その右手で果実を手に取ると、そのまま噛り付いた。アイシスが気にしない様にと誓った早さであっという間に食べ終え、残った芯を適当に放り投げる。もう一度周囲を探り異常が無い事を確かめると左手で外した手袋を持ったままテントへと向かう。


 テントに入ったタチバナは今度は靴を仕舞い、アイシスが眠るのと逆側の端に向かう。テント内には入り口の隙間から僅かな明かりが差し込むだけで殆ど暗闇だったが、タチバナにとってはそれで十分であった。アイシスの分と同様に置かれていた濡れた布で先ずは右手を拭くと、その面を内側に折り畳む。その後は素早く衣服を脱ぎ去るとそれを床に置き、やはり素早く全身を濡れた布で拭いていく。それを終えると毛布を手に取り、座ったままの状態でそれを自身に掛けて目を閉じるのだった。

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