第44部分

 やや収まったとはいえ眠気自体は継続しているアイシスがそれに従って大人しくテントの入り口をくぐろうと入り口を大きく開くが、内部は殆ど暗闇に近い状態だった。入り口を開けている間は星と月の明かりでうっすらと中の様子は窺えるが、閉じてしまえば何も見えなくなってしまうのは明白だった。どうしよう、と眠気で上手く回らない頭でアイシスが考え始めると、入り口付近に金属の皿に載った蝋燭が置かれているのが目に入った。そう言えば雑貨屋でこれも買っていたっけとアイシスがそれを持って入り口を再び閉じる。


「タチバナ、これをお願い」


 アイシスがタチバナの方へ向き直り、それを前に出しながら言う。本来なら自分でやれば良いという話だと本人も思っていたが、火を使うという事で眠気に支配されつつある自身ではやるべきではないと判断しての事だった。そもそも炎を先程初めて見たアイシスにとってそれは幻想的ではあったが、未だ少々の恐怖の対象でもあった。


「かしこまりました」


 そう返事したタチバナがいつもの様にすっとアイシスの前に移動して蝋燭を受け取り、焚き火に近付いて蝋燭に火を点ける。テント前に戻ってそれをアイシスに渡そうとするが、少し考えてから口を開く。


「お嬢様、少々失礼致します」


 タチバナはそう言うとアイシスの前に出てテントの入り口を左手で開き、蝋燭の皿をテントの中心よりやや外側、アイシスの毛布等が置いてある反対側に置く。本来であればアイシスに任せれば良い話だが、現在の強い眠気を催した主に火気を扱わせるべきではないという判断であった。


「ありがとう。それじゃあ着替えとかしちゃうから少し外で待っていて頂戴」


 果たしてそれは正解であると、タチバナの意を汲んだアイシスもそう判断してテントから上半身を戻した従者に礼を言う。本来であれば身分の高い女性は着替え等も従者に任せるものかもしれないとアイシスは思ったが、タチバナに自らの裸体に近い肌を晒す事には何故か強い抵抗があった。その理由に心当たりは無かったが、そもそも自分で出来る事をむやみに他人にさせるという事がアイシスは好きではなかった。


「かしこまりました。ご就寝の準備を終えられる前でも、何か御用の際には遠慮なくお申し付け下さい」


 そう言ってタチバナは焚き火の方に戻り、アイシスはいよいよテントに入ろうとする。……土足で入るものではないわよね。そう考えたアイシスは靴を脱いでテントに足を踏み入れるが、靴を外に放置しては朝露で濡れたりするだろうと先ずはそれをテント内に仕舞う。その後改めてテント内を見渡すと、蝋燭の灯りのみに照らされたそこは何とも幻想的な雰囲気を醸し出していた。


 とはいえいい加減に眠気の我慢も限界なアイシスはそれに浸る事も無く、早速自身の毛布の方に行って着ている物を脱いでいく。脱いだ物を畳んでそれを床に置いた時、付近に何やら布が置かれている事に気付く。触れてみるとそれは濡れており、これで身体を拭くのだろうという事はアイシスにも直ぐに分かった。タチバナが自身の水筒の水で濡らしたのだろうか。だとすれば冒険の旅では水の消費量は思った以上に大きいのかもしれない。そう思ったアイシスだったが、取り敢えずその事について考えるのは後に回す事にして着替えを続ける事にする。


 最後に今朝タチバナに着けて貰ったリボンを解き、床の畳まれた衣服の上に置く。その後は濡れた布を手に取り、自身の身体を拭いていく。欲を言えばお風呂に入りたいという気持ちをアイシスは乙女として持っていたが、これも冒険の醍醐味だと言い聞かせて一通り自身の身体を拭き終える。そして毛布の上に置かれていた、この世界で目覚めた当初に着用していたネグリジェに着替える。少々冒険っぽくはないかもしれないと思ったアイシスだったが、まあ余裕がある間は別に構わないだろうと思う事にする。


「……終わったわ」


 いざという時になって自身が先程したお願いが恥ずかしくなり、呟く様に言葉を発するアイシス。しかし幸か不幸か、タチバナはその優れた聴覚でそれを聞き取り、すっとテントの前に移動する。


「失礼致します」


 そう言ってタチバナが靴を脱いで入り口をくぐると、アイシスは既に横になって毛布に包まっていた。気恥ずかしさからタチバナの顔を見る事は出来ないが、背を向けていては意味が無いのでテントの中心の方に顔を向けて寝転がっている。そのアイシスの近くにタチバナが腰を下ろす。


「……貴方は未だ寝ないのかしら?」


 謝意を表明する言葉をタチバナは望まぬだろうと呑み込み、アイシスがタチバナへと尋ねる。答えは分かり切ってはいたが、何かを話さずにはいられなかった。


「私は未だ疲れてはおりませんので。頃合いになれば私も休ませて頂きますので、私の事はお気になさらずお休みになって下さいませ。……それと私は睡眠中でも周囲の異変は感じ取る事が出来ますので、その点もご心配は無用でございます」


 ああ、創作等で良くある交代での見張り等はタチバナが居れば不要なのか。つくづく有能な人だなあとアイシスは思ったが、眠気で思考が上手く働かなくなってきていた。


「それじゃあ、悪いけどお先に休ませて貰うわね。おやすみなさい」


 それだけを言ってアイシスは目を閉じる。


「おやすみなさいませ」


 灯りはどうするのかという疑問は胸に仕舞い、タチバナも挨拶を返す。それを最後にテントの中は静まり返り、タチバナはアイシスの願い通り、主が真に眠りに落ちる時を待ってその寝姿を見守るのだった。

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