第43部分

「ご馳走様でした」


 夕食を食べ終えたアイシスが食後の挨拶をし、それを聞いたタチバナは少し考える。この場面、果たして自分がすべき挨拶は何なのかを。食材やその生産者への感謝を示す意味を込めて主に合わせたご馳走様と挨拶すべきか、それとも調理責任者としてお粗末様と挨拶すべきか。その答えを導く知識をタチバナは持ち合わせていなかったが、自身が完食してから既に暫し経過している事を踏まえ後者を選ぶ事にする。


「……お粗末様でございました」


 その言葉に対してアイシスから再び卑下するなという趣旨の事を言われる可能性をタチバナはほんの少しだけ考えていたが、流石に挨拶の言葉にまで噛み付く様なアイシスではなかった。そのアイシスは胃袋が満たされた事により疲れが眠気へと変換され、右手で口を覆って大きな欠伸を一つする。その際に何気なく見上げた空はすっかり日が沈んでいたが、地平線の向こうの日の光と星空の明かりによって未だ周囲を見るのに苦労しない程度の明るさを保っていた。


「……きれい」


 その風景が自らの欠伸の際に溜まった涙により更に幻想的な光景となってアイシスの瞳に映る。そもそも少女がかつて住んでいた場所では街の灯りと大気汚染によって星空というもの自体が殆ど見る事の出来ないものであった。よって涙を拭いて改めて見る空もやはりアイシスの瞳には幻想的な風景として映るのだった。暫しの間空を眺め続けていたが、再び欠伸を催した事でアイシスはそろそろ休む事を考え始める。未だ日没直後とはいえ、今日という一日のあまりの濃密さを考えれば此処で休むのも仕方が無い事だと思えた。


「お嬢様。宜しければもうお休みになられては如何でしょうか? 毛布やお着替え等は既にテントの中に用意してございます。……もしご要望がございましたら私がお身体をお拭き致しますが」


 アイシスが欠伸を二度もしている場面を見たタチバナが主に就寝を勧める。急激に瞼が重みを増してきたアイシスにとっては殆どの準備が整っている事は正直に言って有難かった。タチバナに身体を拭いて貰う。その行為自体は寝たきりに近い生活を送っていた少女にとっては慣れっこではあったが、このタチバナの提案には何故か妙に抵抗を感じるのだった。元の世界でも最初は強い抵抗を感じていたし、もう身体が自由に動かせないという訳でもないのだから当然と言えば当然だと深くは考えずにアイシスは納得する。尤も、眠気に支配されつつあるアイシスには既に深く考える事自体が難しくはあるのだが。


「そうね。でも身体は自分で拭くから大丈夫よ。ただ……」


 そこでアイシスが言葉を詰まらせる。ある要望を伝えるべきか、否か。アイシスはそれを暫しの間考えていたが、その間タチバナは黙って主の次の言葉を待っていた。そして、平常時のアイシスであれば別の選択肢を選んだかもしれないが、アイシスはそれを素直に伝える事を選んだ。


「ただ……その、私が眠るまで、傍に居て欲しいのだけれど」


 自身の新たな身体、アイシスはそれなりの年齢……少女の居た国でもひと昔前であれば元服を過ぎて大人として扱われていたであろう年齢は過ぎていると思われる。その為に口に出す事は最後まで抵抗感はあったが、何年も孤独な夜を過ごし続け、最期の時をも孤独のまま迎えた少女にとっては切実な願いであった。欲を言えば添い寝をして欲しい位だったが、強い眠気の中でも少女の理性はそれをそのまま口には出させなかった。


「……かしこまりました。それでは私は後片付けをして参りますので、お着替えまでがお済みになりましたらお声掛け下さいませ」


 とはいえタチバナがどう反応するかとアイシスは心配していたが、幸いにもタチバナの反応は至って通常通りであった。内心どうであるかは定かではなかったが、確かめようが無い事を気にしていられる余裕は今のアイシスにはなかった。


「分かったわ」


 そう返事をし、ともあれ当面の心配事が片付いたアイシスはいよいよ寝る準備に入る事にする。先ずは身に着けたポーチから水筒と同じく雑貨屋で購入した歯ブラシを取り出すが、タチバナは片付けをしているとはいえ何となく人前で歯を磨くのに抵抗を感じてテントの脇に移動する。


 思えば歯を磨くのも久し振りかと感慨深くなるが、同時に上手く出来るかという不安も感じる。それもあって時間を掛けて念入りに磨きたい所だが、やはり冒険となれば水の節約に重きを置くべきだろう。そう考えたアイシスは先ずは口を濯ぐと、歯ブラシを軽く濡らして全体をまんべんなく磨いていった。


 最後にもう一度口を濯いで歯ブラシを軽く洗い、水を切ってポーチに仕舞う。節約を心掛けたつもりではあったが、水筒の中身はかなり減ってしまっていた。明日にも補給をしなければならなそうだが、不安を抱えたまま眠りに就くのは良くないと楽観的に考える事にする。


 歯磨きを終えたアイシスが戻ってくると、既に大方の片付けは終わっている様だった。焚き火だけが未だ赤々と燃えて光を放っており、タチバナは石に腰掛けてナイフの手入れをしていた。テントに目をやると先程まで閉じていた入口が少しだけ開いており、その構造を知らないアイシスでも楽に中に入れる様になっていた。完全に開いていないのは虫等が入り難くする為だろう。歯を磨いた事で少しだけ眠気が収まったアイシスはその意図を汲み、改めてタチバナへの尊敬と信頼を強めるのだった。

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