第42部分

「……かしこまりました。それでは、取り敢えず冷めてしまう前に頂くと致しましょう」


 タチバナは何かを考える様な間を少しだけ空けた後、手に持った炙り干し肉のナイフをトレーに置き、パンのナイフを手に取りながらそう答える。そのままタチバナがアイシスの近くの石に腰掛けるのを待ってから、アイシスが口を開く。


「ええ、それじゃあ頂きます」


「……頂きます」


 互いに食前の挨拶をし、いよいよこの旅での初めての食事が始まった。アイシスは先ずは最初に焼けた「麦の粉を水で練って焼いたもの」則ちパンを食べる事にする。刺してあるナイフに口が触れぬ様に慎重に横から噛り付くと、表面はかりっという食感がした。外側はやや冷めてきていたがもちもちとした内部は未だ温かさを保っており、焼きたてのパンを頬張るという贅沢をアイシスは十分に噛み締める事が出来た。特に味付け等はしていない様に思われたが、炭水化物の自然な甘みを焼きたて特有の熱が引き立て十分な旨味を感じられた。


「中々美味しいわね、味付けとかはどうなっているのかしら?」


 やや咀嚼が足りないかもしれないと本人も思う程の早さでするっと一口目を飲み込んだアイシスがそう言いながらタチバナの方へと目をやる。するとタチバナが右手に持っているナイフには既にパンの姿は無く、それとトレーの上の干し肉を交換する所であった。本来であれば驚きの声を上げてもおかしくはない場面であったが、既に似たような場面を見ていたアイシスはやはりこの件については触れない事にする。


「ありがとうございます。パンの方は生地に軽く塩を混ぜてはありますが、それだけですね。此方の干し肉はやや多めの塩と香辛料を少々振りかけております。普段お嬢様がお召し上がりになっていたものとは比較にも――」


「あのねえ。私は味を褒めたんだから素直に受け取っておきなさいな。それに掛けた手間と美味しさは必ずしも比例するものでもないでしょう。ああ、別に料理に手間を掛ける事を否定する訳じゃないけれど、仮にも冒険の最中なんだからね。手間を掛けずに出来るだけ美味しい料理を作るというのも料理の技術の一つじゃないかしら」


 聞きたかった事が聞けたのは良かったが、その後のタチバナの謙遜に思わずアイシスが割って入る。昨日までのアイシスがどんな食生活を送っていたのかなどアイシスは知らないが、自身にとってこの世界で最も大切な人が自らを卑下しようとする姿を見ている事は出来なかった。


「……申し訳ございません。そしてありがとうございます。……それではお食事をお続けになって下さいませ。ああ、宜しければ干し肉もご一緒にお召し上がりになってみて下さい……味は悪くないかと存じますので」


 余計な事を言って空気を悪くしてしまったかもしれない。そのアイシスの心配をタチバナの最後の言葉が打ち消す。謙虚なタチバナがそう言ったという事は自分の気持ちが伝わった筈だ。そう思ったアイシスが笑顔を浮かべながら、タチバナの言葉通りにトレーの干し肉付きのナイフを左手で手に取る。


 意気揚々と石の席に戻ったアイシスだったが、利き腕と逆の手で刃物を口元に運ぶ程自身の手先に自信を持ってはいなかった。やや手間取りながら両手のナイフを入れ替え、今度は干し肉を口元に持って来て噛り付く。やや多めと言っていただけはある強めの塩味と肉の旨味、そして香辛料の風味が口内に広がる。干し肉という事でやや瑞々しさには欠けるが、それがまた冒険という感じがして別のスパイスとして作用しているとアイシスには感じられた。本人が言った様に本来の味その物も美味であり、欲を言えば白いご飯が食べたいとアイシスは思うのだった。


 まあ無い物ねだりをしても仕方が無いし、このパンも十分に美味しいからとアイシスが再び両手のナイフを入れ替えてパンに噛り付こうとした時、ふとタチバナの姿が目に入る。案の定タチバナは既に干し肉を完食しており、アイシスは今後この事については一切気にする事を止めると心に誓うのであった。


 やっぱり美味しい、お肉と一緒に食べると更に互いの味が引き立つ気がする。このお肉に使われている香辛料って何なのかしら。今まで食べた事が無い風味……だと思うんだけど、もう何年も病院食しか食べていなかったし、最後の方は点滴だけで何も食べていなかったから分からないわね。そんな事を考えながら食事を続けたアイシスは、最期には死を救いとさえ感じていた自身の前世をこうも何気なく振り返る事が出来るとは、自らの心は自分で思っていたよりも強いのかなと感じていた。


 楽しそうに食事を続け、時には少し遠い目をして過去を振り返るアイシスの様子を、先に食べ終えたタチバナが使い終えたナイフの手入れをしながら眺めていた。主の変化に気付かぬ程タチバナは鈍くはなかったが、直近にあった出来事によって何か心境の変化があったのだろうという推測をしていた。聡明で博識なタチバナであってもまさか人格そのものが替わっている等とは露とも思ってはいない。だがどちらにせよ、その主の変化は悪い変化ではない。そう思いながら、タチバナはアイシスの食事を見守るのであった。

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