第41部分
それではいよいよ頂きます……と思った所でアイシスはある事に気付く。流石にナイフに刺さったまま食べるのではないと考えた場合には素手で食べる事になるのだが、自身は手を洗ったりはしていないという事に。しかし付近に水道の類は無く、川や井戸も見当たらない。そうだ、水筒……と思い付いた所でアイシスは更なる事実に気付く。歩いている最中には何度か水分補給はしたが、巨蜂との戦闘の戦後からは暫くの間何も飲んでいなかった。もしかしたら妙に疲れを感じている原因の一つはそれかもしれない。
そう考えたアイシスは水筒を取り出し、ナイフを持ったまま器用に蓋を開けるとそこに水を注ぐ。それを勢い良く飲み干すと、その水からは未だ冷たさを感じる事が出来た。高い金を出しただけあって保温性はかなり高い様であり、これならば衛生面もある程度は安心出来る。しかし残りの水量は半分を切っており、此処で手を洗うのに使ってしまった場合は明日のやりくりに不安が残る。そういう思考を経たアイシスが更に考える。しかしタチバナが言及していないという事はナイフのまま食べろという事かもしれない。そもそもこの世界ではそれ程衛生観念が発達していないという可能性もある。確か元の世界でも手洗いの重要性が認知されたのはかなり最近になってからだと何処かで目にした気がする。
そうして様々な思考を経たアイシスが出した結論は、ナイフに刺さったまま食べるという事であった。少々危険な気もするが、団子だって串というそれなりに危険なものに刺さっているのだから多分大丈夫……だろう。手洗いに関してはそもそも本日の食前に一度もしていないし、手で直に触れなければそれ程の危険性は無い筈である。何よりも、今自分は冒険の旅に出ているのだ。多少の不衛生な環境には慣れなければならない。覚悟を決めたアイシスだったが、唯一の懸念点を思い出す。そして思い出せて心底良かったと安堵する。これだけは解決せねば気が気ではない。
「ねえタチバナ。このナイフはさっき巨蜂に投げた物ではないわよね?」
アイシスのその質問にタチバナは即答しなかった。両手に干し肉が刺さったナイフを持ったままトレーの所まで移動し、その上のパンの刺さったナイフの柄を凝視する。
「いえ、そちらがそのナイフでございますね。ですが洗浄してありますので特に問題は無いかと存じますが」
タチバナが淡々とそう答える。その様子はアイシスにとっては信じられないものだったが、タチバナは冗談を言っている風ではないし、そもそも主の問いに冗談で答える様な人だとアイシスは思っていない。つまりはタチバナは本当にそう思っているという事であり、冒険をするならば実際にそう思うべきかもしれない。しかし現時点でのアイシスは巨蜂に刺さったナイフで食事をする気にはどうしてもなれなかった。確認して良かった。心からそう思ったアイシスはナイフとパンを交換する事にしたが、先ずはタチバナに礼を言う。
「ありがとう。邪魔したわね」
「いえ。それでは調理に戻りますね」
しかし何となくタチバナの見ている前でそうするのは気が引けたアイシスは、タチバナが竈に戻って再び干し肉を炙り始めたのを確認してから石から立ち上がり、トレーに近付くとそっとナイフを取り換える。タチバナであれば此方を見ずとも当然自分の動きは把握しているだろうが、それを気にする事も無いだろう。本人がそのナイフを食事に使う事を気にしていないのだから。
新たなナイフを手に改めて席に着いたアイシスだったが、そこでまたも新たな気付きを手にする。いや、冷静に考えれば人に食事を用意させておいて自分だけ先に食べるというのはどうなのか、と。その直後の事だった。
「お嬢様、干し肉が焼き上がりましたので宜しければ此方もご一緒に……と、未だお召し上がりになっていなかったのですか? 既に食べられない程の熱さではないかと存じますが」
タチバナが料理の完成を宣言する。料理と言っても干し肉を軽く炙って塩と香辛料を少々振りかけただけの物だったが、それはアイシスの目には非常に特別な物に見えた。
「あのね、貴方に作らせておいて私だけ先に食べるって訳にはいかないでしょう」
貴族の令嬢らしい台詞ではないかもしれないとアイシスは思ったが、それだけの良家であれば専属のシェフが居る筈であり、タチバナの料理を食べる事はこれが初めてという可能性も十分にある。そう読んだアイシスは自分の感性を優先する事にしたのだった。
「……お気遣い頂きありがとうございます。ですがその様にお気を遣わずとも、従者として当然の事でございますので」
タチバナの反応は従者としては当然とも言えるものだったが、だからこそアイシスの予想通りでもあった。こういう時こそ主人という立場の使い時である、とばかりにアイシスが意気揚々と言葉を返す。
「いいえ。世間ではどうかは知らないけれど、この旅の間、私達は一緒に食事をする事にしましょう。まあ状況によって勿論例外もあるとは思うけれど、あくまで基本的にはね」
もしかしたらかえってタチバナに気を遣わせてしまうかもしれないけれど、少なくとも悪い提案ではないと私は思うからこれ位の我儘は許して欲しい。アイシスはそう思った。そう、幼少期を除けば常に善良で控え目に振舞って来た少女にとって、我儘を言う事自体が一つの夢でもあったのである。その気になればそれがいくらでも許される……そんな立場に生まれ変わった少女の最初の我儘がこれだった。少なくとも彼女がそう意識してのものでは、だが。
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