第40部分

「お嬢様、此方です」


 両手に枯れ枝を抱えたアイシスがテントの付近に辿り着いた時、既に手持ち無沙汰になっていたタチバナが声を掛けて合図をする。それを聞いたアイシスがまるで母に呼ばれた幼い子供の様に小走りになって駆け寄ると、そこには既にテントが張られ、石を並べた簡易的な竈も用意されていた。その上には雑貨屋で購入した金属製のトレーが置かれ、更にその上には麦の粉をを水で練ったであろう白い物体と干し肉が置かれていた。


「どうやらお待たせしちゃったみたいね」


 そう言いながらアイシスが拾って来た薪を竈の横に置き、更に右手に持っていた枯草を風で飛ばぬ様に何本かの枝の下に挟む。


「流石はお嬢様。薪への火付けのコツをご存じだったのですね」


 それを見たタチバナがアイシスに称賛を送る。タチバナに褒められた。昔何かの本で読んだ知識を覚えていて良かった。アイシスがそう思った瞬間、その腹が音を立てる。虫や蛙の鳴き声が響く中ではあったが、その音はタチバナの耳にもはっきりと届いたのだった。


「……聞いたかしら?」


 顔を赤らめながらアイシスがタチバナにそう問い掛ける。タチバナは聴覚も優れている。はっきりとそういう場面を見た訳ではないがアイシスは何となくそう思っており、そしてそれは事実であった。そして周囲は遠くの鳴き声を除けば静寂に満ちている。それでも乙女として、アイシスは一縷の望みを掛けて問わずにはいられなかった。


「はい。しっかりと。お嬢様は本日、かなり運動をされましたからね。直ぐにお食事をご用意致しますので少々お待ち下さい」


 だが現実は非情であった。しかしタチバナはそうではなく、それを何でもない事の様に扱ってくれた。もしかしたらこの世界では別に恥ずかしい事ではないのかもしれない。少女はそう思ったが、そもそも元の世界でも誰かに言われたから恥ずかしいと感じる様になった訳ではなかった気もする。……兎も角、過ぎた事は気にしても仕方が無いとアイシスは言われた通りに大人しくしている事にする。


「……分かったわ」


 それだけを言ったアイシスが座れる場所は無いかと辺りを見回す。テントは完全に寝る為の場所の様で、今は入口も閉じられていた。内部には座る為の十分な空間は有るが、今閉じているという事はそこに行くべきではないとタチバナが思っているという事である。つまりタチバナを全面的に信頼しているアイシスとしてはテントは選択肢から外される。


 アイシスがテントから視線をずらすと、丁度タチバナが竈の前で何やら作業をしている所だった。竈の内側はアイシスの角度からは見えなかったが、タチバナが手に持つ物が石である事は分かった。次の瞬間、タチバナが両手に持った石同士を竈の内部で擦り付けるとそこから火花が飛び、アイシスが用意した枯草へと着火する。その火がパチパチと音を立てながら徐々に薪に燃え移りやがて炎となると、アイシスの角度からもその光が見えた。そしてタチバナがトレーを退けた事によりその姿が露わになる。


「わぁ……」


 それを見たアイシスが小さく感嘆の声を漏らす。幼少期は危険だからと親が見せずにおり、成長してからは病室で過ごしていた為に、少女は炎というものを直に見た事が無かった。単なる物理現象の一種でありながら不思議に揺らめくその光にアイシスは強い感動を覚えていた。


 そんなアイシスの内心を知ってか知らずか、タチバナが例の麦の粉の塊にナイフを突き刺した物を両手に持ってその炎に近付ける。そんな事をして大丈夫なのかしら? そう思いながら眺めていたアイシスだったが、その意識はやがて漂って来た香ばしい匂いの方へ移って行った。麦の粉が焼ける時の匂い……それは昔日に母と共に行ったパン屋を思い出させた。このまま幸せな思い出に浸っているのも悪くない。そう思ったアイシスだったが、匂いにつられて二度目の音を鳴らせた自身の腹によってそれは断ち切られた。


 再び顔を赤らめるアイシスだったが、すっかり暗くなって来た空の下では誰もそれを認めなかった。そもそも唯一の観客であるタチバナは料理の焼き加減を見る事に集中していてアイシスを見てもいないのだが。とはいえタチバナはその間も周囲への警戒は解いておらず、アイシスの腹の音もしっかりと聞き取っていてしっかりと従者の務めは果たしていた。


「お嬢様、焼き上がりましたので少し冷ましてからお召し上がり下さい」


 やがてタチバナがそれらのナイフを二本とも、付近に置いてあった鍋に載せられたトレーの上に置いてアイシスを呼ぶ。そしてトレーの上の二つの干し肉にまた別のナイフを刺すと、今度はそれらを炙り始める。待ちに待った食事の時が来たにもかかわらず、アイシスは別の事に心を奪われていた。それらのナイフに刀身が黒いものは含まれておらず、つまりタチバナは少なくとも五本以上のナイフを持っているという事になる。両腕の袖にはあるのは予想出来るとして、後のナイフは一体何処から取り出したのか。


 しかしその思考も直ぐに空腹によって中断され、アイシスはトレーの上のナイフの片方を手に取る。そういえば座る所を探していたんだったと思い出して周囲を見渡すと、都合の良い位置に大きな石がある事に気付く。その下の方には土の跡があり、タチバナがこれを用意した事は確かな様だった。アイシスにはそれを持ち上げる自信すら無かったが、もうタチバナの身体能力について考える事は止める事にしてその石に腰掛ける。座り心地は良いとは言えなかったが、それがまた冒険という感じがしてアイシスは何やら感慨深くなるのだった。

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